テリー プロフィールによると、亜星さんはもともと慶應大学の医学部にいらしたんですね。それが、どうして音楽の道へ進むことになるんですか?
小林 親父の実家が病院だったので、しかたなく行ったんだけど、僕はまったく興味がなかったんですよ。もともとすごく不器用で、医者なんてなれるわけがないと思っていたので、途中で親に黙って経済学部に転部したんです。
テリー ありゃりゃ、そういうことでしたか(笑)。
小林 あと、その頃ちょうど朝鮮戦争が始まってね、向こうで戦って帰国した進駐軍がクラブとかで遊ぶから、バンドが足りなくてね、僕らみたいな下手っぴでも忙しくなっちゃった。
テリー あ、もうバンドをやっていたんですね。
小林 うん、僕はビブラフォンっていう楽器をやってた。僕らは当時、横浜にあった婦人部隊の専属だったから、そこへ毎日演奏しに行ってたんですが、初任給が8500円ぐらいの時代なのに、1日3000円もらえたんです。
テリー ええっ、すごい! 3日でサラリーマンの月収じゃないですか。
小林 そう。おかげですっかり金遣いが荒くなって、学生なのに銀座が大好きになっちゃった(笑)。だから卒業後は、銀座に本社がある製紙会社に就職したんですよ。ところが金遣いは荒いままだから、当時の給料9000円ぐらいが2日でなくなっちゃう(笑)。
テリー ハハハ、そりゃそうなりますよね。
小林 だから、こんなことをしててもどうしようもない、どうせだったら好きなこと、音楽をやろうと思った。でも音楽で飯を食べるのは大変だから、服部正先生に弟子入りしようと思ったんですよ。先生は当時、NHKのラジオドラマ「向こう三軒両隣り」「ヤン坊ニン坊トン坊」の音楽を書かれていて、それがとてもよかったんです。で、さっそく住所を調べて先生の家に行ったの。
テリー へー、行動力がありますね。
小林 会社員の頃から、飛び込みの営業は得意だったの(笑)。たまたま先生はいらっしゃらなくて、自分の曲を入れたテープを置いてきたら、あとで先生から「ぜひいらっしゃい」と手紙をいただいたんです。それで毎週日曜日に先生のお宅で、他のお弟子さんと一緒に音楽の勉強をすることになりまして、しばらくして会社も辞めました。
テリー へえ、ということは、すぐに食べられるようになったんですか?
小林 まあ、細々とですけれど。先輩がキャバレーで演奏しているタンゴバンドのアレンジの仕事を紹介してくれたり、そのうちNHKにも出入りするようになって、やっぱりアレンジの仕事をさせてもらうようになるんです。
テリー ああ、最初はアレンジャーがメインだったんですか。
小林 ただ、アレンジの仕事ってものすごくギャラが安くてね、「こんなの続けていても大して食っていけねえや」と。しかもアレンジの仕事って左脳と右脳で分けると、論理的な左脳の仕事なんですよ。だから左脳ばっかり使ってると作曲に使う右脳が劣化してヤバイな、と感じて、思い切ってアレンジの仕事をやめたの。
テリー 確実な収入を断って、右脳を使うクリエイティブな道へ進みたいっていうのは、大きな決断だったんじゃないですか。
小林 ええ。でも、それがきっかけで、レナウンのCMソングにつながることになりますから。