政権に就いたときすでに齢77、鈴木は総理としての大命が下る前に、「すでに耳は遠く、内閣首班としてその任にあらず」と拝辞したのだが、昭和天皇は「政治は知らなくてもいいからやれ」と大命を下したものだった。時に、陸軍にはこの内閣が「和平」へ踏み出すのではとの懸念があった。しかし、鈴木は組閣にあたってまず陸軍省を訪問するなどし、「観念的、考え方にゆとりのない人物を避けることを配慮」して、この難しい時期の組閣をやり遂げている。政治を知らないどころではなく、極めて「老練なリアリスト」像が浮かび上がるのである。
もう一つ、鈴木のリーダーシップで特徴的だったのは、閣議一つとっても自らリードせずにもっぱら聞き役に回り、閣僚から意見を存分に出してもらうという手法に徹したことであった。周りから意見を出させ、機が熟するのを待って、やおら自らの決断に至るという「待ちのリーダーシップ」であり、同じ「待ちのリーダーシップ」で知られた戦後総理の佐藤栄作、竹下登の手法の“ルーツ”は、この鈴木にあったと見ることができるのである。
昭和20(1945)年7月26日、米英中3国により「ポツダム宣言」が発せられ、鈴木は本土決戦による「一撃講和」の可能性がなくなったことで、戦争収拾問題の新たな段階に直面した。こうした中で、8月6日に広島、9日に長崎への原爆投下があり、同じ9日には対ソ工作が実らずでソ連(現、ロシア)が参戦、内閣としては、いよいよ追い込まれていった。以後、「主戦」と「和平」の議論なお尽きない中、鈴木は何度も海軍大臣を務め、「親英米派の巨頭」だった米内(よない)光政らと協力、「国体護持」を第一義とした考えのうえで、苦渋の「ポツダム宣言」受諾に至ったのだった。
その鈴木は、8月15日の「聖断」を待って総理としての辞表を提出した。その時の官邸の総理執務室の机の上には、「老子」一冊が置かれていた。
昭和天皇「聖断」の夜、“元総理”としての鈴木は苦渋の選択へ国民の理解を求めると同時に、国家再建への想いを込め、ラジオ放送で次のように演説した。
「戦争の終結は、国民の負担と艱苦とを容易に軽減するとは考えられませぬ。かえって、戦後の賠償と復興のために、一層の忍苦と努力を要するのであります。また、いまだかつて経験されたことのない環境の激変に、自らの帰趨を定めることはできないでしょう。しかし、大死一番、一夜の号泣から醒めたその瞬間から、過去一切の恩讐を超え、また一切の利己的な考えを断ち切って、本土の上に、民族永遠の生命を保持発展せしめていくのであります」
退陣後の鈴木は郷里の千葉県関宿に帰り、「死は易く、生は難い。最高責任者として終戦をした以上、その結果をこの目で見たい」と口にしていた。しかし、政界はこの老練なリアリストを放っておいてくれず、再度、枢密院議長のイスに座らされ、天皇の「人間宣言」に伴う新憲法の“枢府通過”への尽力を余儀なくされたのだった。
明治維新の前年に生まれ、「大日本帝国」の終焉に立ち会った鈴木は、昭和23(1948)年4月17日、肝臓ガンのため80歳で没した。尽力した新憲法が施行されて、1年後であった。
■鈴木貫太郎の略歴
慶応3(1867)年12月24日、和泉国(大阪府)生まれ。日清戦争に水雷艇長として従軍、日本海海戦に参加。連合艦隊司令長官、侍従長。「二・二六事件」で襲撃され重傷。総理就任時77歳。昭和23(1948)年4月17日、肝臓ガンで死去。享年80。
総理大臣歴:第42代1945年4月7日~1945年8月17日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。