「ドネア選手、めちゃくちゃ強かったです。その前に皆さん、平日木曜日に『さいたまスーパーアリーナ』に集まってくれて本当にありがとうございました」
WBSSバンタム決勝を激闘の末に制した井上尚弥(26)は、観客に向けて感謝を口にした。11月7日木曜、都心から外れた「さいたまスーパーアリーナ」は2万2000人の大観衆で埋め尽くされた。近年のボクシング興行では破格の動員であり、土日の開催であれば、マイク・タイソン以来の東京ドームも夢ではなかったと思われる。
対戦相手のノニト・ドネア(フィリピン)は、井上にとって雲の上の存在であった。36歳という年齢を感じさせないタフネスぶりは、まさしく「レジェンド」にふさわしく、これまで1Rか2Rで相手をKOさせた「モンスター」にとっても、畏怖すべき相手であった。
「オッズは頭から外して戦う。ボクシングはいつ、どこで何があるかわからないスポーツ」
前日の軽量で井上が口にしたように、4倍ほどのオッズ差がありながら、ドネアに対しての警戒心は慎重すぎた。そして試合が始まると、緊迫感が会場を包んだ。2Rにドネアの左フックが井上の右目をとらえると、生涯初のカットで鮮血にまみれる。さらに何度となく鼻血も吹きこぼれ、劣勢が見て取れた。
局面が明らかに変わったのは11R、井上の強烈な左ボディがドネアの右みぞおちをとらえ、呼吸困難から「あわや10カウント!」のダウンに追い込んだ時だ。実は井上は2Rに食らった打撃で「眼窩底骨折」と「鼻骨骨折」であったことが2日後に判明。ドネアの姿が二重に見える状態のまま残り10Rを戦い、そして薄氷の勝利を記録する。
劣勢の気配があった9R、そして最終の12Rに井上は、観客やドネアに向かって鼓舞するようなパフォーマンスを見せた。スタイリッシュな井上に珍しいアクションであったが、間違いなく2万人以上の観客の心をひとつにした瞬間であった。勝者も敗者も、異次元レベルの技術の攻防を見せ、最後まで1発のパンチでどちらが勝つかわからないスリリングな空気に、観客は酔いしれた。
この日、さいたまスーパーアリーナをあとにする観客は、ボクシング知識の大小にかかわらず、歴史的な一戦への賛美を口にした。そして、井上尚弥が真のファイターになった瞬間を見届けた─おそらく、向こう数十年は訪れない「神がかった36分」であったのだ。
(石田伸也)