2度目に逮捕されて出所したのち、納谷氏は82年から生活の基盤をブラジルに移していた。
〈このまま静岡に居続けるとまた問題が起こる可能性があった。宣雄も環境を変えなければならないという自覚があった。国外に出るならば、大好きなサッカーの強い国がいい。宣雄がブラジルを選んだのは必然だった〉
遠い異国の地でも、規格外の豪傑はすぐになじんでしまう。
サッカー好きと、生来の商魂たくましさもマッチした。日本にブラジルサッカーの試合映像を売る販売窓口や、日本からのサッカー留学生をブラジルのクラブに紹介するエージェントとして、ビジネスを成功させたのだ。
特に後者は、後述するがカズが脚光を浴びてブラジル留学の“広告塔”となったおかげで、繁盛したようである。
ところが儲かりすぎた結果か、外貨持ち出し禁止法違反で起訴される事態になった。日本へ戻るため飛行機で飛び立つはずが、サンパウロ空港で逮捕されてしまったのだ。ブラジルでは外貨の持ち出しは4000ドルまでと決められていた。
〈以下は宣雄の説明である。
「外為法でパクられた。留学生が日本で払うべきの留学費用をブラジルに持って来ちゃった。(中略)『ええよ』と受け取った。そういうのが何人もいて全部で500万円ぐらいたまっていた。それを税関の人間に見つかってしまい、半分寄こせって言ってきたんだ。あの国は捕まっても賄賂を渡せばなんとかなる(中略)でも、日本でも入っていたからブタ箱なんてどうってことはない。行くならば行ってやらぁって言ったら本当に連れて行かれたよ」〉
当時を知るジャーナリストが話す。
「93年になって無罪判決を勝ち取っています。『持っていたお金は、日本側窓口への経費支払いに充てるものだった』という納谷氏の主張が認められました」
とはいえ逮捕直後は、弁護士を使って釈放されるまでの2週間、ブラジルでの留置場生活を余儀なくされている。
危険なにおいが漂う閉ざされた空間でも、納谷氏の独壇場だった。
〈「俺は(中略)日本でも二人殺して、10年入っていたことがあったからな」
宣雄の口から咄嗟に嘘が出た。(中略)刑務所に入っていたのは本当のことだ。中のことを聞かれれば詳しく話せばいい。(中略)次第に中にいる男たちの素性が明らかになった。偽金作りの名人、コカインの売人、爆弾の製造を得意とする左翼活動家、アルゼンチン人の殺し屋──。宣雄は彼らと親しく話をするようになった。〉
中でも“殺し屋”とはシャバでも親交を続けた。
自分のアパートに泊め、日本食のレストランに連れて行くと男は感激して、こう言ったという。
「納谷、殺したいやつがいればいつでも連絡してくれ。お前ならば200ドルでやってやるから」
さらに後日、納谷氏は男の金銭的な苦境も救った。
すると、
〈男は金を受け取ると「お前の頼みならばただで殺してやるから」と電話をしてきた。宣雄は「俺を敵に回せば殺し屋がやってくるぞ」と自慢げに話して回るようになった〉