納谷氏の「ブラックダディ」ぶりは、これだけにとどまらない。
ごく一般的には包み隠しておきたいようなことでも、この男は平気で公開してしまうのだ。
話を日本時代に戻そう。
〈宣雄は複数の女性と付き合いがあり、その中の一人は子どもを生んでいた。知良の異母兄弟に当たる男の子を連れて、堂々と散歩しているというのも耳に入ってきた。まだ幼い知良たちはどんな気持ちで見ているのだろうと聖司(納谷氏の兄=編集部注)は暗い気持ちになった〉
ところが、そんな複雑な状況にもかかわらず、カズは異母弟を大切にしていたという。
93年に写真週刊誌「フライデー」の直撃を受けて、当の異母弟自身が、
「小学校の頃は週3回ぐらい会って、よく遊びました」
と、通常ではありえない“異母兄弟秘話”を明かしている。
納谷氏の周囲は、どんどん数奇な運命に巻き込まれていった。
周知のように、カズは高校を中退してブラジルへと飛んだことでプロとして花開いたが、呼び寄せたのは先に現地で生活していた納谷氏である。
必死の努力を続けたカズのサクセスストーリーと、先にも触れた納谷氏のビジネスでの成功が並行していった。
カズが日本人として初めてブラジルでプロ契約選手になって活躍するにつけ、ブラジル人選手を日本に送り込む代理人にもなった納谷氏はブラジルサッカー界に一大人脈を築き上げていった。
「納谷さんは『ブラジルでは知良より俺のほうが有名だ』とよく口にします。実際、ブラジルに取材に行くと、往年の名選手たちからカズさんを差し置いて『納谷は元気か?』と言われることはありますね」(田崎氏)
そんな納谷氏が各クラブと交渉したことで、カズはブラジル各地を渡り歩いていったのだ。もちろんチャンスをものにしたのはカズ自身の力量だが、田崎氏はこうつづっている。
〈ブラジルには才能ある若手選手が溢れている。その中で、日本人選手がブラジル人を押しのけて試合に出るのは並大抵なことではない。そこで日本のクラブと繋がりのある宣雄は大きな力となった。日本のサッカー界は金銭的に恵まれており、ブラジル人選手にとっては確実な年俸が保証される国だった。(中略)宣雄は有形無形の圧力を掛けることが多かった。知良は宣雄の後押しを受けて、競争の激しいブラジルサッカー界を勝ち抜いた〉
そんな納谷氏の人脈に、レバノン生まれのエリアス・ザクーという人物がいた。74年にFIFA(国際サッカー連盟)会長選挙に立候補したブラジル人、ジョアン・アベランジェを当選させたと言われる選挙参謀だ。
第三諸国から国際組織の長が選ばれるのは異例のことであり、アフリカ大陸にはスーツケースいっぱいの札束を運んで票を獲得したとまで言われている人物である。
93年、日本代表が勝てばW杯出場が決まるイラク戦を観戦するために、納谷氏はカタールの首都・ドーハを訪れた。試合の前日、宿泊するホテルのコーヒーショップで旧知のザクーと再会したという。
〈ザクーは宣雄に顔を近づけた。
「日本は勝ちたくないか?」
「そりゃ勝ちたいさ」
「この大会の審判関係者を知っている。非常に親しい人間だ」
(中略)宣雄は興奮した。すぐにチームに帯同していたサッカー協会の人間に連絡をとった。(中略)ちょっと検討させてくれという男に宣雄は苛立って、付け加えた。
「当然アラブの国々も同様のルートを持っている。(中略)向こうが金を払うならば、こっちも払う。それでイーブンで公平な笛になる」〉
サッカー協会の人間がその話に乗ることはなかったという。
結果はロスタイムにコーナーキックから同点ゴールにつなげられての引き分け。有名な「ドーハの悲劇」である。