追悼番組で盟友・高木ブーはこう言った。「志村は死なないの。ずっと生きてる」──。「喜劇王」を送るのに涙ばかりでは失礼。心の中の“志村けん”を忘れないため、愛すべき「変なおじさん」が遺した伝説を語り継ぐと同時に、その不在とコロナ禍がもたらした芸能界のパニックぶりをレポートする。
志村が芸の道を志したのは、高校を卒業する68年の2月。芸能人の住所録に掲載されていた、いかりや長介(04年没)の自宅前に座り込み、弟子入りを志願したエピソードは有名だ。当時の「爆笑下積み生活」を、志村本人がかつてアサ芸にこう激白していた。
「その頃は靴も買えなかったから、仲よくなったテレビ局の小道具さんからわらじをもらってずっと履いていたの。だけど、都内はアスファルトだから3日くらいしかもたない。すれるから藁がほどけちゃって、半分ぐらいは素足になっちゃうわけ。電車に乗ると周りの客が変な目で見るんだよね」
当時はいかりや宅近くのアパートの一室で、付き人3人が共同生活。仕事が終わるや、閉店間際の銭湯に駆け込む毎日だったそうだ。
「ある時、風呂の帰りに『ちょっと一杯やってくか』と新米の付き人を誘ったら、『いえ、今夜は僕、いいです』って断るの。で、残り2人で飲み屋に行ったら偶然休みで、しょうがなく部屋に戻った。そしたらそいつ何してたと思う? 『プレイボーイ』開いてシコシコやってやんの。かく言う僕だって、もうテレビ局のトイレぐらいしか、やるとこがないんだけどね。情けなかったなぁ」
そんな窮屈な生活から抜け出したくて、人生で初めての「同棲」を始めたのも付き人時代のことだった。
「新宿の成子坂ってとこに3畳で6500円の部屋があって、そこで一緒に住んだんですよ。相手は16歳の女子高校生。今だったら捕まっちゃうって。まさに『神田川』の世界。長くは続かなかったね。すぐいかりや長介さんにバレてしまい、『単独行動するんじゃねぇ!』って、こっぴどく怒られて終わっちゃったよ」
おじさんならぬ「変なお兄さん」だった青春時代を経て、74年にザ・ドリフターズに正式メンバーとして加入。「東村山音頭」や加藤茶との「ヒゲダンス」を大ヒットさせ、一気にスターダムに上り詰めた。ドリフ人気も最高潮に達し、あれほどつつましやかだった生活が大きく一変していくのだった。