日本のアイドル史に特別な輝きを放つ年度──それが「黄金の80年」と「花の82年」だ。河合奈保子は80年に、石川秀美は82年にデビューし、ともにアイドル戦国時代を駆け抜ける。結婚を機に静かに去っていったのも、2人に共通した美しさであった。
松田聖子という“稀代のモンスター”には、どうしても勝てなかった。デビューした80年、すべての新人賞に名をつらねた河合奈保子だったが、先行したのは常に聖子だ。
聖子が3作目の「風は秋色」から24作連続の1位記録を持つのに対し、奈保子が初めてチャート1位に輝いたのは21作目の「デビュー~Fly Me To Love」(85年6月)である。ベストテン内には常にランキングされていたが、デビューから5年後の遅咲きの首位だった。
同曲の作詞を担当した売野雅勇が回想する。
「デビューから5周年の節目で、あえて『デビュー』というタイトルをつけ、1位を取れという至上命令が所属事務所から出ていましたね」
レコード売り上げでは何馬身も引き離していた聖子だが、それでも奈保子に及ばない点があった。1つは老若男女を問わずの高い好感度、もう1つは写真集を中心としたグラビア人気である。
「色白のきれいな肌も魅力だったけど、やはりあの時代の純正アイドルとして、あのくらい胸の大きい子はいなかったから。僕は彼女のデビュー半年後くらいから撮っているけど、少なくとも水着撮影をイヤがったり、胸の谷間を気にすることはなかったね」
奈保子の写真集を数多く手がけた黒坂了司が振り返る。80年6月、16歳でデビューした奈保子は、たちまちトップアイドルに君臨。同年デビューの聖子や岩崎良美、柏原よしえ(現・芳恵)と「黄金の80年組」と呼ばれ、歴史的なアイドルブームを誕生させた。
その渦中に接した黒坂は、奈保子の素直さに何度となく感心した。
「写真集でも、アメリカでのレコーディングを兼ねて3日くらいで撮ってしまう強行軍もザラだったよ。でも奈保子は少しもつらそうな顔はせず、こちらが言ったように撮らせてくれる。16歳でデビューするまで世の中のことは何も知らなかっただろうけど、それが変なクセのなさにつながっていたね」
それから10年後、黒坂はクラリオンガールとして注目されたかとうれいこのグラビアにも関わっている。奈保子と同じく「あどけない顔に不釣り合いな胸」が共通項だが、違いをあげるなら〈巨乳〉という言葉が存在したか、それ以前かということ。さらに「茶の間の幅広い人気か、コアなファン層か」という違いだったという。
そんな奈保子の活動後期にマネジャーを務めた下隆浩は、アイドルとしての全盛期も間近に見た。
「僕が『芸映』に入社した84年、奈保子のよみうりランドでのコンサートにスタッフとして行きました。1万人以上ものファンがひしめいて、トップアイドルの凄さを肌で感じましたね」
それが“ファーストコンタクト”であった。また事務所にとっても奈保子はイチ推しであり、新曲が出れば、俗に「白テープ」と呼ばれたサンプル盤を持って、若手マネジャーたちが売り込みに走った。
「レコード会社もアイドルに予算をかけてくれたし、新曲が出れば週に十何本も披露するだけの歌番組もあった」
80年代は幸福なアイドル環境だったと下は言う。