「おもしろいこと言えなくてごめんなさい!」
奈保子はマネジャーの下隆浩に懸命に頭を下げている。何か大きな失敗をしたわけではない。慣れないバラエティ番組で、機転の利いたコメントが出せなかったと猛省しているのだ。
「そこが奈保子の可愛らしさだし、何年経っても変わらない体育会系な考え。いつも返事は『ハイッ! ハイッ!』だったしね」
仕事に対する責任感は同期の中でも飛び抜けていた。デビュー2年目の81年10月、NHKホールでの収録で、誤って4メートルも深い「奈落の底」に落ちて全治2カ月の重傷を負う。
「ごめんなさい、ごめんなさい‥‥」
自身のケガよりも、仕事に穴を空けることに対しての謝罪をスタッフに繰り返す。そのせいか、絶対安静の身でありながら、病院を抜け出して新曲のレコーディングに向かったことさえあった。
ただし、と下は言う。こうした「裏表のなさ」が、どこか歌手として突き抜けられない要素にも思えた。性格も堅実そのもので、デビューから7年後には神奈川・川崎に自宅を購入しているほどだ。
そして「脱アイドル」という新たな課題に直面することになってゆく──、「当時は事務所としても、奈保子をどうやって再生させるか迷走していた。ミュージカルやドラマをやらせたり、バラエティにも顔を出させたり。ただ、やはり歌できちんとプロモーションしようかという感じにはなっていった」
健康的な笑顔の印象が強いが、奈保子の歌唱力はアイドルでは突出していた。あるバラエティ番組に出た際には、完璧なまでの「絶対音感」に会場からどよめきが起こった。86年には史上最年少で「日本作曲家協会」の会員にも認定されている。
86年に発売した「ハーフムーン・セレナーデ」からは、ほとんどのシングルの作曲を担当。同年の紅白では、念願だったピアノの弾き語りを披露した。
そんな奈保子の清せい冽れつな日々に、唯一と呼べるゴシップが「ジャッキー・チェンとの熱愛騒動」だった。下は直接、奈保子の気持ちを確かめている。
「少し経ってから『どうなの?』と聞いたら『すごく好きだった』と答えましたね。ハリウッドで成功した数少ない東洋人スターでありながら、奈保子に対して気遣いができる。とはいえ、ジャッキーには妻子がいたから、発展することはありませんでしたが」
むしろ、96年の婚約発表のほうが寝耳に水だった。以来、奈保子はカムバックすることなく、オーストラリアの地で家族とともに平穏な日々を過ごしている。1つだけ元マネジャーとして思うことは、奈保子をアーティストとしてさらに羽ばたかせたかった点につきる、という。