「明るい奈保子ちゃんとはいい意味で正反対のタイプ。清純だけど陰りがあるし、健康的な妖艶さも持ち合わせているように見えた」
先輩である西城秀樹の見事な審美眼が光る。評された石川秀美は、河合奈保子の2年後に「秀樹の妹コンテスト」で優勝してデビューを飾った。実は審査員の中で秀美を推したのは秀樹1人だけで、ほぼ決まっていた別の合格者を引っくり返したというのだ。
そして82年──ホテルニュージャパンで大規模な火災が発生し、世界で初めてCDプレイヤーが発売された年は、アイドル界にとって百花繚乱だった。
松本伊代、堀ちえみ、中森明菜、小泉今日子、早見優が新人賞レースを争い、秀美も、後に夫となる薬丸裕英がいたシブがき隊も輪の中にいた。
秀美は同年の4月に「妖精時代」をリリースする。作曲とプロデュースを担当したのは、松田聖子のデビュー三部作を仕掛けた小田裕一郎である。
「聖子に比べれば歌はそれほど上手じゃない。では、どういう形にイメージを作り込んでいこうか考えた」
デビュー曲はオーソドックスなアイドルポップスだが、真価が問われる2作目に何を持ってくるか。アイドル史において、古くは山口百恵が「青い果実」で性典路線に転じ、松田聖子は「青い珊瑚礁」でボーカルの凄さを見せつけた“勝負の2作目”である。
同期の中森明菜は「少女A」でリアルなメッセージをぶつけて大ヒット。そして秀美の「ゆ・れ・て湘南」は松本隆が作詞を担当し、主人公に「ボクたちは」と歌わせている性の逆転モノだ。
そして小田は、この歌詞にヒントを得た。
「色気を売るよりも、男言葉も似合う“ボーイッシュな女の子の路線”で行こうと思った。それに加えて、この曲のサビのように、マイナーコードのほうが彼女の個性が発揮できた」
小田はアルバム用も含め、多くの楽曲を提供。さらにレコーディングではディレクターの役割も買って出た。まだ緊張が残る秀美に対し、ブースの外から「ここは笑うように歌って」とか「そこは無表情な感じで」と指示を出す。
秀美とのキャッチボールは心地よく、時間の都合で別の者が担当すると秀美が煮詰まって歌えないということも聞かされた。
「もちろんルックスは清潔感があったけど、それ以上に家庭的な感じが印象的。レコーディングの休憩時間にも自分で出前の電話をして『親子丼2つと、ギョーザを1つ』なんて言ってくれたね」
オーストラリアにPVの撮影に同行したこともあった。飛行機やバスの中で好きな映画やスポーツについて語る姿は、異性であることを感じさせない親近感があった。そしてスタジオに入れば、一変して白熱した気配に包まれる。
「聖子のアルバムもそうだけど、音楽のプロフェッショナルが集まって完成度の高いものを作っていく。80年代のアイドルシーンは、それこそ合戦の状態だったよ」
全力で80年代を走り抜けた秀美は、90年の結婚と同時に第一線から姿を消す。その去り際もまた、一点の曇りもなく〈王道アイドル〉の美しさだった──。