甲子園で叩き出した154キロが熱視線を浴び、6球団の競合の末にドラフト1位で西武に入団したのは昨年のことである。だが、期待されたルーキーイヤーは、一軍はおろか二軍での登板も数えるほどしかない。今季、一軍初登板、初勝利、初完投と実績を積み重ねるまでに、菊池雄星は何を得て、何を捨てたのか。
「お前が投げると負けない」
9月8日、西武ドームでのロッテ戦に中7日で登板した菊池雄星は、7回4失点ながら4勝目を上げた。最速は145キロ。全盛期の球速には及ばないものの、菊池はチームの勝利に満足するように、こう語った。「立ち上がりに2者連続三振を取れたので、力を入れて投げようと思いました。けれど、うまいことハジき返されてしまった。力を入れてもハジき返されてしまうのが一軍。将来的には力で抑えることのできる投手を目指したいですし、もちろん150キロという数字を出したい気持ちはありますけど、現時点では低めに丁寧に投げることを考えています。150キロは力んで出るものでもないですし。今日は4点も取られながらズルズルといかなかったのは、力まなかったことがよかったのだと思います」
花巻東高時代に甲子園で投げた154キロがメジャーの注目を浴び、高3の秋には大リーグ8球団が面談に訪れた。当時は本人もメジャー志向が強かったと言われる。
その自慢の快速球をプロに入って封印したのか、はたまた出なくなったのか。本人は「今後出てくれればいい」と語るが、今は「出せない」というのが実情のようだ。
力に頼って抑えること一辺倒だった菊池は、何が自分に足りないのかを昨年1年間で学んだ。そして、「ゲームを作ること」「試合を壊さないこと」が先発投手として最も重要であることを身に染みて感じている。その姿勢はバックにいる野手にも伝わっている。菊池は、それが何よりうれしいという。
「野手の方が『ここでふんばれば打って返してやる』と言ってくれて、中島さんなどは本当に打ってくれます。打たれても我慢してゲームを作って、チームの勝ちに貢献できているのがいちばんうれしいですね。今はチームと一緒に戦えているなと実感しています」
岩手から出てきた18歳の菊池は、プロ入りして、いきなり大人の世界に投げ込まれた。所沢での寮生活で孤独を感じても無理はない。そんな中、入団1年目から、さまざまな経験をした。マスコミの注目が先行する菊池に、「力もないのに口ばかり」と白い目で見る選手も正直いた。チームの中で、菊池が自分の居場所を見失っているのは確かだった。
だからこそ、今季一軍の先発ローテーションを守ることで、チームメイトから声をかけられ、勝利のために一丸となる中に自分がいられることに喜びを感じているのだ。「先輩から、『お前が投げると負けないな』と言われたのが、いちばんうれしかった」
と、菊池は言う。高校時代にスピードにこだわった男が、そのスピードを捨て、配球とコントロールを意識することにより、粘りの投球ができてきた。そして一軍に帯同することで、先輩と高度な野球談議を交わせるようになり、都会の孤独感から脱出することができた。そんな思いから、「アドバイスをしてくれる野手の方に、ありがとうという気持ちが強いです。1人では何もできないんだということを自覚しました」
と、感謝の言葉を口にするのだ。
楽をしているように見えた
かつて、同じ高卒ルーキーとして西武に入団した清原和博( 現野球解説者)は、その年(86年)の北陸遠征の際、誰からも食事に誘ってもらえず、1人ポツンと宿舎で夕飯を食べていることがあった。当時の森祇晶監督が「キヨにかまわんでくれ」と、黄金ルーキーに気を回しすぎたためでもある。他のナインも「アイツと行けば騒がれる」と敬遠したこともあり、遊離していった。
99年、松坂大輔(現レッドソックス)が入団した時は、当時の東尾修監督が清原の例を教訓にして、同期入団の赤田(現オリックス)を一軍に帯同させ、石井貴やデニー友利ら先輩投手に松坂への目配りを頼み、孤立しないように配慮していた。
菊池の場合は、渡辺久信監督が「PL学園や横浜のような甲子園の常連校で競い合った選手とは違い、体力的にも精神的にもまだまだ」と判断、二軍スタートさせた。過保護にするよりも、本人の力ではい上がってくるのを待っていたのだ。だが、菊池は体力不足を露呈、肩の故障にも見舞われた。当時の小野和義二軍投手コーチ(現一軍コーチ)は入団当初の菊池についてこう語っている。「指がボールにうまくかかった時のボールのすばらしさと言ったらなかった。それを見ているから、何でもっと自分を追い込んでいかないんだと思ってしまう。楽をしているように見えてならない」
類いまれな素質を認められていたからこそ、手抜きをしているように見られがちだった。それが「楽しようとしてんじゃないぞ!」と、コーチの叱責を招き、ひいては大久保博元元コーチの暴力ざたにまで発展し、本人はいっそう孤立していったのだ。
だが今季は、かつて松坂を陰で支えた石井貴コーチが菊池を指導。当時の松坂との違いをきちんと説明して、何が足りないのか、そのために何をしなければならないのかを説明している。「松坂は監督やコーチがスピードガンにこだわるなと言っても、まっすぐに執着した。ただし、そのためのトレーニングは並大抵のものじゃなかった」
という石井コーチの話を聞いて、菊池はいよいよプロ意識に目覚めつつあるようだ。菊池は言っていた。「自分の考えと現実のギャップを認識して、もう一度体を作り直そうと思いました。コーチからは頭で考えるな、体で覚えろと言われ続けています。体力的に自信が持てるようになれば、一軍で登板できると信じてやってきました。昨年は(「目標は新人王」「2桁勝利」などと)いろいろ言っていましたが、今年は何とかして一軍で投げたいというのが念願でした」
「もっともっと強くなりたい」
一軍初登板となった6月12日の阪神戦は、2回3分の1を投げ4失点で降板した。だが、5回にチームは逆転、菊池に黒星はつかなかった。試合後の会見で、菊池は泣いた。打たれたことよりも一軍のマウンドに立てたことに感激したのだ。
「昨年1年間、本当にいろいろなことがありました。悔しい思いをしたり、誰にも話せない悩みもあって‥‥野球をやっていなければ、どんなに楽かと思ったり。応援をしてくれる人がいるのかとも考えて不安でしたが、今日の声援を聞いて、やっていてよかったと思いました。自分の人生の中で、一番の声援を受けて投げられたと思っています。ここがスタートラインだと思います。今日のピッチングで、もっともっと強くなりたいと思いました。いろんな人に助けられて‥‥」
もう言葉にならなかった。大粒の涙を流し「耐えてきた自分におめでとうと言いたい」と話すのがやっとだった。「一軍のマウンドに立つ」という最低限の目標が、ここに達成された。
6月17日に20歳の誕生日を迎えた菊池は、このような誓いを立てている。「19歳はケガとかあって力を蓄えた1年。20歳の1年は、これまでの経験を爆発させたい。初勝利、そこしか見てません。8月31日は岩手で試合がある。そこで勝てるようにしたい」
1つ目の誓いは2週間後に現実になった。2度目の登板となった6月30日のオリックス戦で6回途中を2失点に抑え、プロ初勝利を手にしたのだ。戦前、「一軍で投げて視野が広がった。小中高と自己満足で投げていたが、一軍では打者の嫌がる投球がしたい」と語っていたとおりの〝大人の投球〟を見せた。試合後にも菊池は、
「まだ自分の中では完投できる体力がない。少しずつ体力を作りたい。今の僕は5、6点取られる投手です」 と自分の置かれている立場と真正面から向き合う姿勢を示している。
球団関係者も言う。
「菊池にとって、この1勝が大きな弾みになった。去年はいろいろあって、背伸びしている部分もあった。それが勝利をあげたことで現実と向き合えるようになり、言動にも自覚が感じられるようなった」
筆者は、これまで多くのドラフト1位選手から「結果を残せない時、好奇の目で見られることがつらかった」という話を聞いている。 菊池の場合は、ドラフト1位どころかメジャー8球団の誘いを蹴ってのプロ野球入りだっただけに、結果の出ない1年はよけいに風当たりが強かっただろう。
今季は開幕一軍でスタートしながら、未登板のまま二軍落ち。震災があり、被災地に向けて恩返しの活躍を誓っていただけに、悔しさは倍増した。菊池はブログにこう書いている。
「かなり落ち込みます。しかし、そんなときに、この画像を見ると自分の悩みの小ささに気付きます」
画像とは、宇宙から撮った青く輝く地球の写真である。
目標にしてきた「凱旋登板」
渡辺監督は菊池について、「確実に一歩一歩成長している」と認め、2つ目の誓いである8月31日に故郷・岩手で行われる楽天戦で凱旋登板することを認めた。
満員で埋まった岩手県営野球場。試合前から菊池は、「東北の空気を嗅ぐと生き返るようです。ずっと野球をやらせてくれた両親が見に来てくれるし、自分を育ててくれた場所ですから」
と、期待に胸を膨らませていた。前回登板、8月18日の楽天戦で3勝目、初完投も果たしている。以来、満を持して登ったマウンドだったが、山﨑武司に3ランを浴びて4失点で初黒星、故郷に錦を飾ることはできなかった。
渡辺監督は試合中、珍しく菊池にハッパをかけた。「故郷の人たちに最後まで諦めない姿を見せてみろ」
その指示どおり、菊池は117球を投げきり完投している。敗戦後、菊池はいつもより雄弁に、こう語った。「3月に試合日程を見た時から、ここに合わせてやってきました。岩手の皆さんに見ていただいてよかった。山﨑さんは、役者が2枚も3枚も、それ以上に上でした。長くプロで活躍している凄みを感じました。プロは簡単な世界ではない。もっと勝てるようになって、また戻ってきます」
菊池にとって岩手県営球場は忘れることのできない〝聖地〟である。西武戦が行われた時、まだ小学校4年生だった菊池少年は胸躍らせながら観戦した。花巻東時代は県大会で何度も立ったマウンドである。西武入りが決まった時には、必ず戻ってきたいと心に誓った球場だった。敗れこそしたが、この日、最後まで誰の手を借りることなく投げ切ったことに満足感があった。
そういえば、プロ初登板のあと、菊池はこう言っていた。「(この世界は)バッシングも必要なんですよね。されなくなったら、ある意味終わりという心境になりました」
大震災から半年が過ぎ、菊池は今、被災した故郷のためにも、絶対に諦めないという強い気持ちを前面に出して戦っている。確実に成長しているのだが、担当の小野投手コーチは手厳しい。
「雄星は、まだまだ甘い部分が多い。持っているもののよさを考えたら、まだ追い詰めていったほうが力を発揮すると思う」
メジャーも見初めた快速左腕が開花するのはこれからだ。