人柄誠実で聞こえた村山富市は、総理大臣就任が決まった瞬間、周囲に「困った、困った」と口にしていたが、やがて次のようにハラをくくった。
「東西冷戦が終焉し、55年体制が崩壊するなど内外情勢が激変する中で、自民党も社会党も変革する必要がある。そういう時期に、社会党党首の自分が総理になった。ために、自分には歴史的役割と任務があると思っている。そして、これは天命にして使命でもある」(「私の履歴書」日本経済新聞社)
戦後間もなくの片山哲内閣以来47年ぶりの社会党委員長として、この国のトップリーダーとしての覚悟が固まるや、その心境を村山はそう述懐している。
羽田孜内閣の総辞職を受け、それまで下野していた自民党は「非自民連立政権」から離脱した社会党、新党さきがけと組み、この村山を首班とする“奇手”で政権の奪還を図った。
村山は長らく社会党左派の立場から、「55年体制」下で自民党政権と対峙してきている。それがある日、突然の自民党からの「君が総理大臣をやってくれ」であり、もとよりその準備は皆無だった。一般の企業なら、労働組合の委員長が、ある日、突然、社長に担ぎ上げられ、ナニから手をつけていいものか途方に暮れるの図に似ていた。
ところが、政権は1年半にわたり、なんとか「安定政権」を保つことができた。このフシギ、しかし村山には天下取りに不可欠な「天の時、地の利、人の和」の3条件が、ピッタリ揃っていたといってよかった。
「天の時」は、時代が村山を引っ張り出したということだった。平成6(1994)年という年は、長かった世界の東西冷戦構造が崩れ、それに伴って世界的にイデオロギー対決の時代が終息、ために社会党という政党の在り方も問われる空気が出ていたことによる。
「地の利」はと言うと、そうした“迷える社会党”にタイミングを合わせるように、絶好の誘い水として政権奪還を窺う自民党には、「数」が不足していたということだった。まさに、のるかそるかで、「自社」両党の間にアウンの呼吸が成立した格好だったのだ。
そしての「人の和」は、村山が時の自民党で発言力があり、クセ者にして“ハト派”の後藤田正晴、梶山静六、野中広務といった面々にその人柄を買われ、ミコシとしての村山をこれら実力者が揃って汗をかき、担いだからということだった。逆に言えば“担がれ上手”の体質が村山にはあったということだった。
なるほど、1年半の村山政権の実績を点検してみると、冒頭の村山の言葉にあった自らに課されたとする「歴史的役割と任務」は、まずは果たした格好ではあった。
総理に就任した村山は、まず「日米安保体制の堅持」「自衛隊の容認」を表明、「日の丸・君が代」を国旗・国歌として認めるという、それまでの社会党からすれば、まさにコペルニクス的な政策の大転換をやってみせた。これらは、やがて党の基本政策として採決され、ここに事実上、社会党は解党されたといってよかったのであった。一方で、先の自民党の“クセ者三者”の思うツボでもあったということである。
また、政権2年目に入った平成7年8月15日の終戦記念日には、過去の日本の「植民地支配と侵略」に「痛切な反省」「お詫びの気持ち」との「村山談話」を表明、閣議決定もした。のちの自民党の各内閣も、以後、この閣議決定を踏襲しているのである。
一方で、こうした「歴史的役割と任務」を果たしたほかに、被爆者援護法の制定、水俣病未認定患者の全員救済といった“社会党らしさ”も示した。しかし、一国のトップリーダーとしての国家観の披歴、あるべき国家ビジョンを掲げることはなかった。労働組合委員長が、突然、社長に担ぎ上げられ、「あるべき会社のビジョンを掲げよ」と迫られても、それはいささか酷ということでもあった。
■村山富市の略歴
大正13(1924)年3月3日、大分県生まれ。学徒出陣、明治大学専門部卒業。大分市議、県議を経て、昭和47(1972)年12月、社会党より衆議院議員初当選。平成6(1994)年6月、村山連立政権組織。総理就任時70歳。平成12(2000)年6月、政界引退。現在は社民党名誉党首。
総理大臣歴:第81代 1994年6月30日~1996年1月11日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。