「小沢(一郎)はナタの魅力だ。黙々と仕事をして、やるときはドスンと決断する。一方の橋本(龍太郎)はカミソリだな。頭脳明敏、スパッとした切れ味が魅力だ」
総理大臣となった田中角栄は、多士済々が蝟集(いしゅう)した田中派の中で、有望な若手視をされていた小沢一郎(元自民党幹事長・現国民民主党)と橋本龍太郎を比べ、こう評したものであった。
その橋本には、若い頃から数々の異名があった。その背景は、諸々の自信あるいは自信過剰から付いたもので、「風切り龍太郎」がいい例だった。文字通り怖いものなしで、永田町を肩で風を切ってカッポするところからついている。
そのほか、ヘタに触れれば血の出るような逆襲をされることから「カマイタチ」、食らい付いたらカンタンには離れぬことから「タコ」、形容詞としては「血の気が多い」「ケンカっ早い」などがあった。
なるほど、若い頃から血の気は多く、麻布高校時代はチンピラにからまれて立ち回り、相手のナイフが橋本の左眼の下をかすめて、この傷跡は総理になっての後年もうっすらと残っていた。
また、1年生議員のときは、自民党本部の職員に組合がないのを知るや、先輩議員に「いまの時代、社会で、こんなことはおかしい」と食い下がったが、先輩議員から「キミ、余計なことは言わんでいいんだ」と一喝されたといった具合だった。
白眉は、タテつくことなど誰一人いない権力絶頂の「親分」田中角栄に、堂々の反論をしたことだった。
田中が医科大学のない県の解消のため、全国的に医科大学を置こうとの計画を示したが、橋本は「時期尚早」と迫ったのだった。結局、この件は田中も譲らず、橋本をコンコンと諭(さと)して言い含めたのだが、自信家の橋本はそれでも党幹部に言ったものだった。
「僕は間違ってるとは思っていないですよ」
しかし、かく言うだけあって、橋本の「仕事師」ぶりは、田中が口にした「カミソリの切れ味」ぶりを発揮し続けた。とくに、厚生行政には絶対の自信を示したものだった。
大平(正芳)内閣で厚生大臣として初入閣したが、長い間の厚生省(国)と日本医師会の断絶状態を氷解させてみせた一方、これも揉め続けた懸案の「スモン訴訟」を見事に和解へ導いてもみせている。
また、そのあとの鈴木(善幸)内閣時では、自民党行財政調査会長のポストに就き、ここでも長く懸案だった日本電電公社、日本専売公社の民営をキッチリと実現させている。
さらに、その後の中曽根(康弘)内閣の運輸大臣時でも、国鉄の分割・民営化に道を開いてみせたということだった。
こうした行財政調査会長としての橋本の腕力ぶりを見て、田中角栄はこう唸(うな)ったものだった。
「アレ(橋本)は鈴木(善幸)より上かも知れんな」
その鈴木首相自身も、「橋本は若いけど、一度口にしたことは、キッチリやる凄さがある」と、妙な感心をしていたものだった。
■橋本龍太郎の略歴
昭和12(1937)年7月29日、東京都生まれ。慶応大学法学部卒業後、呉羽紡績入社。昭和38(1963)年10月、26歳で衆議院議員初当選。自民党総裁選で小泉純一郎をおさえて総裁就任。平成8(1996)年1月、橋本内閣組織。総理就任時58歳。平成18(2006)年7月1日死去。享年68。
総理大臣歴:第82・83代 1996年1月11日~1998年7月30日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。