大平派最高幹部の鈴木善幸が、派閥領袖(りょうしゅう)の大平正芳の急逝により総理のイスにすわったのは、ロッキード事件にもまれ、なお影響力温存を窺った時の最大派閥の領袖、田中角栄の意向によるものだった。
田中と鈴木は、昭和22(1947)年4月の戦後2回目、新憲法下での初の総選挙で同じく初当選を果たした。以来、派閥は違ったが政治家としての交流は長く、田中政権時代には「現住所・大平派、本籍・田中派」などと言われるくらい意思の疎通は密であった。田中にとっては、影響力を残すにはこれ以上ない政権ということでもあった。
しかし、鈴木は手堅さはあったが、それまで閣僚として強い存在感を発揮したことはなく、もとより総理・総裁候補として取り沙汰されたこともまったくなかっただけに、国内外の反応は「ゼンコー・フー(善幸って何者)?」というものであった。
そのうえで、何より総理のお鉢が回ってきたことで最も驚いたのが鈴木自身で、元々、トップリーダーたる自覚もなかったことから、昭和55(1980)年7月、自民党総裁に選ばれた直後の同党両院議員総会では、こんな就任の挨拶をしたものだった。
「もとより、私は総裁としての力量に欠けることは、十分、自覚しております。(中略)しかし幸い、わが党は多彩な人材多数を擁しております。これらの人たちに十分、力量を発揮して頂き、私の足らざるところを補って頂ければ、これまで以上の党運営を期することができるのであります」
つまり、トップリーダーとしての経綸、抱負は乏しいことを自ら明らかにしたものであった。そのうえで、政権のスローガンとして「和の政治」を掲げ“増税なき財政再建”を実行可能ならしめるための「行政改革」を公約とした。鈴木はそれに、「政治生命をかける」とまで言い切ったのだった。
しかし、政権運営はさんざんであった。内政は、例えば昭和56年度予算は大蔵省のペースに抗し切れず、結果として増税を是認するしかなかった。また、防衛費増強を米国に強要されると、こちらは抵抗なく押し切られている。
さらには「政治生命をかける」とした「行政改革」も、当時の「経団連」の名誉会長にして硬骨漢で鳴った土光敏夫を第二次臨時行政調査会(俗に「第二臨調」と呼ばれた)の会長に据えたが、鈴木自身の決断力不足もあって方向性を示すだけにとどまり、行政に具体的なメスを入れることはできなかった。
一方、外交は、それまで農林大臣として通商に携わったことはあったが、本来の外交とは無縁だったこともあり、馬脚をあらわした格好だった。時の伊東正義外務大臣とぶつかり、伊東を外相辞任に追い込んだ。原因は、鈴木に外務官僚とのパイプがなく、政権と外務省の意思疎通がまったく機能していなかったことにあったのである。
かくして、政権実績上がらぬ中での約2年半、その末期に至ると最大の「後見人」とも言えた田中角栄から、ついに“最後通牒”を突きつけられたのだった。田中は言った。
「いつまでも芝居の幕を開けないと、客は帰ってしまうぞ」
この田中の言葉をもって事実上、鈴木政権はジリ貧の中での退陣を余儀なくされた。昭和57(1982)年10月12日、鈴木はふだんの慎重な物言いから一変、大見得を切ったかのような「大死一番、決断した」として退陣を表明した。総理としての見識を最後まで見せつけることがなかった鈴木に、メディアの一部からは「暗愚の宰相」の声が挙がったものであった。
■鈴木善幸の略歴
明治44(1911)年1月11日、岩手県生まれ。農林省水産講習所(のちの東京水産大学)卒業。昭和22(1947)年4月、社会党から衆議院議員初当選。昭和55(1980)年7月、鈴木内閣組織。総理就任時69歳。平成16(2004)年7月19日、肺炎のため死去。享年93。
総理大臣歴:第70代 1980年7月17日~1982年11月27日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。