輝かしき50年代映画黄金期に「肉体シリーズ」で日活を支えた筑波久子(80)。昭和の妖艶スターが、映画に命をかけた日々を回想する。
「昨日は五浦観光ホテルを手伝っていてね。ありがたいことに、お客様がたくさんいらして大変だったのよ」
北茨城市の五浦海岸に立つ同ホテル。実は、彼女は創業者一族として、今も関わっていた。
「最初に出演した映画も、スタッフみんながここに泊まったの。海岸に出した船に私が乗って、『怖い怖い!』と泣いたものよ」
慶應義塾女子高在学中、日活第3期ニューフェイスに合格し、17歳で銀幕の世界に足を踏み入れる。「お芝居も未経験の子供よ」と謙遜するが、あふれ出るオーラとエロスを日活上層部は見逃さなかった。
そして「肉体の反抗」(57年)に抜擢されるとたちまち大ヒット。多忙を極める日々が始まった。
「撮影は朝6時から夜中12時。それが7年間よ。1日3本掛け持ちした時期もありましたね。まるで機械になったように、毎日キャメラの前にいたわ。日活の所長には『セットにいるかぎり、役者は役を全うせよ。何があっても、両親が亡くなっても、女優はエゴを殺してセットの中で生きなければならない』と言われていましたが、みんなスターを育てようと命がけで、夢中になっていたんです」
役が終わるたびに「一皮剥かれた」と表現するとおり、まさに身を削った。疲労が重なり倒れ、病院に運ばれたこともあった。駆けつけた母親が「この子を殺さないで!」と泣き叫んだことを、今でも覚えている。
「恋愛もできなかったわ。一度、お慕いしていた男性との大切な約束があったけれど、ロケが深夜1時までかかって、汽車に乗れなくて愛を失ったんです。でもね、みんなそうだった。石原裕次郎さんも月丘夢路さんも、みんな頑張っていらしたの」
涙声になって懐かしむのは、名だたるスターたち。
「裕次郎さんはニューフェイスをよくかわいがってくれましたね。ある時、私たちがバスの中でお弁当を食べていたら『俺は死んじまうよ!』と駆け込んできたことがあったの。そして『お前たちはいいよなあ。俺はトイレに行きたいけど、みんながついてくるから行けないんだ。だから俺をここにかくまってくれ』って。自然体で本当にステキでした」
とりわけ共演機会の多かった岡田真澄には、さまざまな「初体験」を捧げたという。
「女子校出身ですから、男性としゃべることも、愛を語らうことも、見つめ合うことも初めて。まして、すごくクールな彼となんて、ね。リード上手でスマートで、私、渡米したあとも、まるで映画の続きのように彼と同じデンマークの血が入ったアメリカ人に恋をしていたわ」
そして先頃、ユーチューブチャンネルを開設するなど疾走する小林旭は、ニューフェイス同期だ。
「ある映画の舞台挨拶で、ドレスがぴったりすぎて階段を登れない時があったの。困っていたら、彼がパッとお姫様抱っこして、軽々と階段を上がってくれて。一方で、かわいいところもあるの。撮影の合間に私が疲れて寝ていたら、頬にそよ風が当たるの。何かと思って目を開けたら、旭ちゃんのお口が私の頬に近づいてきて。旭ちゃん、顔が真っ赤になっていたわ」
命を燃やした青春の日々を思い、筑波は今も、映画に情熱を傾ける。
「今度、私がプロデュースして世界中で大ヒットした『ピラニア』(78年)の7作目の『ピラニアジャパン』を日本で制作する予定なんです。若者たちとみんなで一緒に楽しみながら、日本を元気にしましょうね」