50年代の邦画界に「肉体派女優」と呼ばれる一群があった。劇場には長蛇の列ができ、男たちは登場する女優の肢体に目を凝らす。その先頭を走った筑波久子(76)は、今なお、映画制作に情熱を燃やす。
「作りたい映画が4本くらいあるの。1つはハーレーダビッドソンをテーマにした『アイアンホース』という映画。世界が不安定で抑圧された気分の時は、ハーレーで自由になれる映画がいいんじゃないかと」
筑波自身も生まれ育った北茨城市でハーレーのイベントを定期的に開催するなど、バイクへの思い入れは強い。今やハリウッドに拠点を置く映画プロデューサーだが、原点は57年の日活映画「肉体の反抗」である。
「肉体派女優といっても、当時は水着止まり。それなのにアメリカのサイトで『チャコちゃんはポルノスターだった』と書かれていたこともあったわ。デビュー作はお芝居の勉強をする間もなくバーンと出ていった感じだけど、幸いヒットして、それからは日活を押し上げるために来る日も来る日も撮影に追われていたわね」
故・岡田真澄や宍戸錠らとの共演が多く、撮影中は相手に恋をする気持ちでラブシーンに臨んだ。ただし、「肉体派女優」のレッテルは、私生活でも常につきまとった。
筑波は、そうした視線から守るためか、20歳で「クラブチャコ」という自分の店を六本木にオープン。あの力道山も、足しげく店を訪れていたという。
「当時、あの方は精神的に荒れていて、クラブやタクシーなどあちこちでトラブルを起こしていたのね。それが『チャコさんに会うと心が休まるんだ』と言って、時にはドアの透き間からそっとのぞくこともあったくらい。力道山さんとはスピリチュアルな関係で、私に手を上げるようなことは1度もなかったわね」
筑波は主演女優としてヒット作を連発していたが、63年、24歳で引退し、アメリカに留学。さらに結婚後も映画の勉強を続け、映画プロデューサーとして独立。
そして78年、筑波を大物プロデューサーに押し上げる一篇が公開。テレビを含めて何度もリメイクされる「ザ・ピラニア」シリーズの第1作「ピラニア」で、1億円の低予算ながら、40億円もの大ヒットとなる。
そのきっかけは、意外なところにあった。
「私の実家の五浦観光ホテルに、ピーター・フォンダのマネージャーやシナリオライターを招いて食事をしていたの。そこに出た刺身の姿造りには当然、大きな目が残っているでしょ? それがアメリカ人には驚きだったようで『見てる、こっちを見てる!』と大騒ぎ。そこから、ピラニアが人間を襲う映画に話が広がっていったのよ」
撮影は、筑波自身がピラニアの模型に手を入れて動かすなど試行錯誤を重ね、撮り直しを追加して公開。パニック映画の新たなブランドに成長する。
その後、長男キースの自殺など不幸もあったが、死ぬまで映画制作には心血をそそいでいく覚悟。
「ピュアだったキースのハートのぶんまで、私がやれることをやっていくわ」