「少年ジャンプ」に8年以上連載し、同誌が650万部という全国紙に匹敵する部数を誇った黄金期を支えた作品の一つ「ろくでなしBLUES」。作者の森田まさのり氏によれば、連載が長期に及ぶ中、さまざまな“実験”も試みたという。そんな中で強烈に意識した「ライバル」との一触即発エピソードとは──。
「400万部から500万部の頃がいちばん勢いを感じたね」
「ろくでなしBLUES」や「ROOKIES」などで知られる森田まさのりは、懐かしそうに当時を振り返る。
学ランにリーゼントという不良たちのケンカの日々を描いた「ろくでなしBLUES」、通称「ろくブル」は、1988年に連載を開始。97年まで実に8年以上にわたって連載された人気作で、累計発行部数は5000万部にも及んでいる。週刊少年ジャンプが発行部数653万部(94年)という記録を打ち立てた黄金期を支えた作品の一つだ。
いわゆる不良ものは当時の漫画界において人気ジャンルの一つだった。しかし、少年ジャンプにおいては、主流はバトルもの。初期には、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」があったが、その後は本連載にも登場した宮下あきらの「私立極道高校」などわずかで、実は、番長ものや不良ものは、決して多くないのだ。
いわゆるジャンプの王道でないこのジャンルを描こうと思った理由を聞くと森田は笑いながらこう言う。
「それしか描けなかったんですよ。高校を卒業してそのまま漫画家の道へ進んだから社会経験が全然ない。世間を知らずにここまで来てしまった“イタい漫画家”の典型なんです(笑)。だから描こうと思っても学校生活しか描けなかった」
確かに、森田によれば、子供の頃から大の漫画好きで、将来の夢はもちろん漫画家だった。その後、漫画賞への投稿を始め、中学3年生の時には地元・滋賀県から東京の出版社まで原稿を抱えて直接持ち込み行脚に行っている。
「藤子不二雄A先生の『まんが道』(同氏の漫画家人生を描いた自伝的作品)に影響されてね。出版社何社かに原稿を持って行って見てもらって。ある出版社ではボロクソに言われたよ。軽くあしらわれて悔しくてね。その時、ギュッと握った担当者の名刺は今でも宝物として残してあるよ。あの気持ちを忘れないように、と」
そんな中、ジャンプだけは森田少年の原稿を真摯に見てくれたという。
「その時、担当してくれたのは(のちに8代目編集長となる)茨木(政彦)さんでした。『ここは新しいね』とか言いながらちゃんと見てくれた。それがうれしくて、その後ジャンプに持ち込みをすることにしたんだ」
この出会いが森田の運命を決めた。その後、高校生になって再び原稿を持ち込んだ際も偶然、茨木が担当となったのだが、たった1回会っただけの新人・森田を茨木は覚えており、また熱心に指導をしてくれる。
結果、森田は高校2年時に描いた作品でデビューを飾り、漫画家としての第一歩を踏み出すことになる。