東日本大震災から3月11日で、まる10年を迎える。天地がひっくり返るほどの激震、すべてを飲み込む黒い津波、電源を失い制御不能となった原発…政府・東京電力は30~40年の長期計画で原発廃炉の青写真を描くが、10年後に見えてきたのは、崩壊したロードマップという厳しい現実でしかないという実態を、現場作業員の声を交えて詳報しているのが、3月9日発売の「週刊アサヒ芸能」だ。
「10年経っても東電のやっとることはなんも変わっとらんよ」
呆れた口調で語るのは、2011年の事故直後に福島原発に入った50代の作業員だ。
「緊急で入った当時は、建屋が吹っ飛んだ1号機にカバーをかける作業だった。もちろんカバーをかけたところで放射線量は減らないわけですよ。せいぜいガレキのほこりが飛散しないくらいなもの。でも、放射線はコロナと同じで目に見えないから、それだけだって大変な作業でしたよ」
2011年3月11日、宮城県沖で発生したM9の巨大地震による大津波により東日本沿岸は壊滅的な被害を受けた。特に福島第1原発は震度6強の大きな揺れと40分後に襲った津波により電源を喪失。1~3号機の核燃料がメルトダウンを起こし、原子炉格納容器が損傷した。さらに、1、2、4号機は水素爆発により建屋の一部が吹き飛んだ。
前出の作業員が事故当時の作業の様子を述懐する。
「特に1号機の損傷は激しかったですよ。海側からはグチャグチャに壊れた内部が見えたぐらい。カバーをかけたのも外から見えなくする目的もあったんだろうね。ワタシらは、吹き飛んだ鉄骨、作業に浸かって足場など被爆したガレキなど、そこらにあるものは何でもコンテナに突っ込んで密封しましたよ。それでも、線量が高くてどうにもならないから、砂利、土などを突っ込んでモルタルやセメントで固めていました」
それどころか、福島第一原発の復興現場は今も混乱のまま。海中放出が検討されている汚染水についても作業員の目には、「ダダ漏れ」しているように映るというのだ。
その衝撃の現状、さらに東北の夜の街の変遷を見てきた性サービス嬢たちの証言など、テレビ・新聞が報じない「3・11大震災から10年の現場」を、3月9日発売の週刊アサヒ芸能3月18日号で多角的に詳報している。