〈タモリの原点〉を知る1人がマンガ家の高信太郎である。75年にタモリが上京した直後から、歌舞伎町のスナック「ジャックの豆の木」を中心に、その存在を世に広めようと尽力する。
例えば大阪の人気グループ「チャンバラトリオ」を銀座に招いた際は、高が解説、タモリに司会という大役を与えた。さらに──、
「俺が1クールだけ『オールナイトニッポン』のパーソナリティをやったんだけど、3カ月のうちの4週はあいつをゲストに呼んだよ。まだ素人の頃だから、タモリじゃなくて森田さんとしてな」
高信太郎の番組が打ち切りとなったため、親交のあったTBSアナ・林美雄の深夜番組「パックインミュージック」にタモリを紹介。ここで傑作ネタの「4カ国語マージャン」などを披露したことがブレイクのきっかけとなるが、あわてたのはニッポン放送だ。
「あいつを取られちゃダメだと焦ったんだろうね。すぐにメインのパーソナリティとしてタモリを呼び戻して、俺は3カ月で終わったけど、あいつは7年続く人気番組になったものな」
また高は前田武彦の冠番組である「前武のヤングアップ」(テレビ朝日)にもレギュラー出演していた。ここに前説のような形でタモリを送り込み、放送作家出身の前田に感想を聞いてみる。
「う~ん、タモリはおもしろいんだけどねえ‥‥。テレビではダメだろう」
代名詞である「密室芸」が、当時のテレビ界の基準では合わないだろうと危惧したのだ。
実際、タモリが「大正テレビ寄席」(テレビ朝日)や「笑点」(日本テレビ)といった王道の演芸番組に出た記録はない。もっといえば芸人に不可欠な「営業」の経験もほとんどない。
それでもタモリは、あっという間にテレビでも重宝されるタレントになった。
高は、芸能史におよそ類を見ないタモリの“出世”を分析する。
「赤塚不二夫、山下洋輔、筒井康隆、浅井慎平といった“文化人畑の推薦”が得をしたよね。そのおかげで丸々のペーペーという感じには見られなかった。ふつうの下から叩き上げてくる芸人と違って、横から滑り込んできた形」
30歳と遅咲きのデビューだったこともあって、初期のタモリは「戦後最大の素人芸人」を自称していた。ただし、素人(サラリーマン時代)でありながら、黒柳徹子に認められて「徹子の部屋」(テレビ朝日)に出演するという快挙も果たしている。
その縁は、今なお年末になると必ずゲスト出演し、滅多に見せなくなった「密室芸」を披露するという形で続いている。今年の暮れも「37年連続」と記録を更新しそうである。