9月に公開された「昭和天皇実録」。日清戦争、日露戦争の勝利、日韓併合の時期に幼少期を過ごし、青年期にはヨーロッパを訪れる。やがて「昭和」になり日本は世界との戦争の時代に突入する。「平和」を志向した天皇はなぜ開戦を選んだのか。「ご聖断」の時、思い描いていた風景は何か。100の局面で解説する87年の「激動」の生涯が、ここにある!
昭和天皇が涙し、激高する‥‥国民が知ることはない姿があったことを「実録」は伝えていた。その感情の背景には時代に揺れる天皇の姿があった。
1921年6月2日フランス・パリの中心部にあるエッフェル塔は、いつもとは装いを異にし、塔の頂には大型の日章旗がはためいていた。大勢の群衆が見守る中、塔の設計者であるエッフェルらと広場に姿を現したのは欧州訪問中の昭和天皇であった。塔頂部から街並みを見下ろした天皇のお顔にはさぞかし人間味のあふれる笑顔が輝いていたことだろう──。
「天皇」が感情や好悪を表に出す姿を知る機会はない。しかし「昭和天皇実録」には、「喜怒哀楽」を表に出し「人」としての魅力にあふれる天皇が浮かび上がっている。月刊誌「WiLL」12月号に「富田メモへの重大疑惑」を寄稿した神道学者の高森明勅氏が評する。
「明らかになっているエピソードはいずれも、昭和天皇はすごいと思わせる場面で出てきています。昭和天皇の真実に迫るという部分で評価できます。それが昭和天皇の再評価につながってくるでしょう」
右翼民族派の故・野村秋介氏の筆頭門下生で二十一世紀書院の代表を務める蜷川正大氏はこう語る。
「お亡くなりになって26年目で実録を出すのは時期尚早で、戦前の評価がもう少し冷静になされた時に出されるべきかと思います。しかし陛下の『感情』が発表され、人間的な温かみも伝わったのではないでしょうか」
06年2月22日の記述にはまだ5歳の昭和天皇が“イタズラ”を働いて叱られる場面が記されている。
〈大根細工の象の鼻を折り、四肢を切断されたため、側近の侍女より、動物虐待の悪しきこと、玩具の動物にても醜く壊すことはよろしからずとの申入れを受けられ、以後はなさざる旨を述べられる〉
幼少期に好まれた“ごっこ遊び”についても、多くの記述がなされている。
〈親王は御学友・側近等と相撲を取られるほか、御自ら四十八手を御考案になる〉(10年3月6日)
〈午後、軍艦遊びをされる。艦名を「橋立」とされ、御自らは一等水兵、雍仁親王を二等水兵とされ、松平御用掛を艦長とされる〉(同年10月25日)
相撲では動物を力士に見立てた番付表を作られたこともあったというし、軍艦遊びでは、航海の途中で暴風に遭遇されるなどくふうも凝らしていたとされる。10年7月3日には、関ヶ原の戦いに関する地図を見た。晩年、好きな力士の名前さえ口に出さないほど“無私”を貫いた昭和天皇だが、ここではのちにつながる人物評価を漏らしている。
〈裏切りをする二心を持った者を嫌う〉
この人間観は「二心」を持った松岡洋右外相との確執など、天皇と側近との関係に色濃く反映されている。
幼少より生物や植物に興味を持たれ、11歳の頃には〈博物博士になりたい〉と夢を語られたこともあったが、嫌いな科目もあった。
〈算術は重要ではないとの理由で、第四時限の理科と算数の時間の入れ替えの御希望を洩らされ〉
12年9月14日には明治天皇崩御を受けて乃木希典が殉死。明治天皇の崩御でも大正天皇の崩御でも涙を流したとは記されていない昭和天皇。しかし、学習院院長を務め、昭和天皇への教育にも熱心だった乃木に対しては格別の思いを持っていた。
〈皇子御養育掛長丸尾錦作より乃木自刃の旨並びに辞世などをお聞きになり、御落涙になる〉
皇太子となった12年の大みそかに2人の弟君と別居された天皇は、毎週土曜日に弟君とお会いになるのが楽しみだった。しかし、翌年の10月、土曜日に軍の視察予定が入ると、天皇は涙を流して視察日の変更をお願いしたという。