ニッポンの昼を象徴し、永遠に続くと思われた「笑っていいとも!」の終了が発表された。近年は下降気味の視聴率だったとはいえ、一大ニュースとして日本中を駆け抜けた。番組の顔であるタモリは、開始時も終了の知らせも変わらず淡々としているが、稀代の「怪芸人」の素顔はいかなるものだったのか──。
「32年間フジテレビが守ってくれた。感謝しても感謝しきれません」
10月22日、放送の終わり間際に唐突に発表された「来年3月で終了」の報を受け、司会のタモリ(68)は謙虚にコメントした。
82年10月4日にスタートした「笑っていいとも!」は、来年3月をもって32年間の歴史に幕を下ろす。平日の正午という時間帯でありながら、最盛期には27.9%もの視聴率を獲得。いや、数字以上に「いいとも!」は日本人の生活と一体化し、バブル期や大不況期も見つめ続けた番組であったといえる。
そんな“昼の顔”であるタモリだが、デビューから数年は“夜の顔”で知られていた。
筆者が初めて目にしたのは、やはり平日の正午に放送していた「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)であった。タモリは注目の芸人として紹介され、初期の代表作「4カ国語マージャン」を披露。アメリカや韓国、フランス人などで卓を囲むのだが、それぞれの言語はデタラメながら、実にそれらしく聞こえる。
それまで「大正テレビ寄席」や「笑点」で観ていた声帯模写ではなく、誰もやったことのない“思想模写”というスタイルに大きな衝撃を受けた。
タモリと同じく福岡の出身である小松政夫は、素人時代から交流を持った1人である。
「放送作家の高平哲郎に紹介されて、たしか『彼も福岡ですから』って言われたのかな。で、俺の生まれは『博多』と呼べる街だけど、タモリとか武田鉄矢は『福岡市』だからってクギを刺しといた。博多どんたくの祭りに出られる場所に住んでいないって言うと、シュンとなっていたな」
辛口で言いながら、その境遇には近いものを感じた。タモリは早稲田大学を抹籍後に帰郷し、職を転々とするうち、ひょんなことからジャズピアニストの山下洋輔らに「発掘」される。
小松もまた喜劇役者を目指して上京したが、アテもなければツテもない。しかたなく車のセールスマンになり、ここで磨いた話術や観察眼が、植木等の付き人を経て開花した。
小松は芸能界きっての「宴会芸」や「瞬間芸」の名人であり、タモリの初期の芸風にも大きな影響を与える。例えば代名詞である「イグアナのものまね」には、こんなルーツがあった。
「俺がクレージーキャッツについていた頃、谷啓さんと一緒に岩風呂に入っていたんだ。すると谷さんが風呂場の隅のほうで、目だけを光らせてジッとしている。で、『ワニ』って言いながら、湯船にスルスルスルッと入って来た」
この話を伝えると、やがてタモリ流に「イグアナ」にアレンジ。小松に「あれはウケました」と礼を言ったという。ただし、真のタモリらしさが発揮されるのはこの直後だ。
「長男が生まれて、桃井かおりが揺りかごをプレゼントしてくれたんだよ。で、家に遊びに来たタモリが、ガラガラの代わりだと言ってフルチンになり、赤ちゃんの顔の上で『ほら、ガラガラ~』って言いながら腰を振っているんだ」
小松の叱責は「赤ちゃんの目がつぶれたらどうする!」であったが、タモリの返しは「大丈夫、まだ見えちゃいません」だった。