89年春、池袋で行われた「新人コント大会デラックス」の舞台で、筆者は初めて生身のタモリを見た。渡辺が主宰する老舗のお笑いライブで、若手を審査する「コーラスライン」のコーナーにサプライズ出演したのである。
審査される側には若き日の今田耕司&東野幸治らがいたが、どの組に対しても、にこやかな視線を送っていたことが印象的だった。
やがて92年から始まった「タモリのボキャブラ天国」(フジテレビ)では、多くの若手芸人を輩出。このことにも渡辺は感謝する。
「ちょうど若手が出る番組がなかった時期で、そういう連中に火がついたのはいいことだった。若手がどうやって『食える側』に回れるかを、それこそ『いいとも!』のレギュラーになることも含めて提示してくれましたから」
若手だけではない。渡辺には杉兵助という師匠がいるが、ストリップの「道頓堀劇場」にしか出ていないカルト芸人の部類だった。
すでに70歳を超えていた88年、渡辺はタモリに直訴する。
「入れ歯もしていないジジイですが、おもしろい師匠なんです」
タモリはあっさりと渡辺のオーダーを聞き入れ、師弟に「コラナベ! 縁側放談」のコーナーを持たせる。タモリ自身が「杉さん、杉さん」と、誰よりも怪老人の存在を楽しんだようだった。
さらに異例の“高齢者レギュラー”には余談がある。杉は家庭を顧みない無頼の徒だったが、この番組で人気が出たことで、生き別れていた息子たちとの再会につながったそうだ。
渡辺はレギュラー期だけでなく、その後も「テレフォンショッキング」のゲストなどで番組と関わる。ある日、ゴルフのラウンド中に前日のゲスト経由で電話がかかってきた。
「ちょうど1.5メートルのパーパットに向かうって時間。タモリさんにちょっと待ってもらって、みごとにパーパットを沈めたんですよ。ああいうライブ的な場面のあしらいは抜群で、流れるように『良かったねえ、で、明日は来てくれるかな?』ってつなげますから」
そして本番では、用意していたネタと違う場面で細かく反応し、意外な展開に話を広げる。それが想定していたものよりもはるかにおもしろい。そこには、常日頃の「人に対する興味」をキラリと光らせる。
「1度だけ青山でお寿司に誘われたことがありました。何だか他愛もないことばかり話していたけど、タモリさんと2人きりというのは、この年でもドキドキしましたよ」
ある時期、同じ番組作りに参加し、日本人の習慣であった「笑っていいとも!」の終焉──渡辺は想像もつかないと言う。
同じことを来春、すべての日本人が「タモリのいない昼下がり」として味わうのだろうか。