代々木上原に建てた小松の家には、桃井かおりと伊集院静が“お忍びの場”に使うなど、常に20人ほどの来客でにぎわう。タモリも当然、足しげく通った1人であり、2人は掛け合いで即興コントを競う。
「よくやったのが電車で横浜から鹿児島まで行くってヤツ。売り子と客になって、例えば岡山だと『えー、マスカットに切り餅、いかがっすか~』って振るんだ」
これに客の側が「くれよ」と言うと、売り子側は必ず「ない」と返す。
「マスカットと切り餅、あるって言ったろ!」
「いや『マスかくと気持ちいい』って言ったの」
これを攻守交代しながら、延々とつなげていく。
小松の自宅だけでなく、真鶴の旅館で「合宿」と称してネタ作りを行うこともあった。やがて2人のコント集は日本テレビ「11PM」で丸ごと特集されたり、赤塚不二夫が予算を出して渋谷公会堂や日本青年館を借り切ったこともあった。ライブでは、テレビではオンエアできないような過激なネタも多かった。
小松によれば「湧き出る泉のごとく」アイデアが生まれ、自他ともに認める傑作が「製材所」のシリーズ。見立てた電動ノコギリを前に、丸太や角材、べニア板などを次々と切っていくのだが、2人の擬音は木材によって絶妙に変化する。さらに、有名人に発展させたバージョンでは、大橋巨泉や永六輔が“餌食”となった。
「(永の声色で)咳、声、のどに浅田飴。ボクはですね‥‥」
「(ノコギリの音で)チュイ─ン」
「ああっ!」
こうしたブラックな掛け合いは、タモリの「ネタを立体的にイメージできる」という天賦の才によって着地できたという。
2人がシャレで作っていた「博多どんたく・博多山笠」の漫才コンビを、いつの日かまた満座の前で披露してもらいたいものである。
さて話を「ブレイク期」に戻すと、タモリが全国区の知名度を得たのは「金曜10時! うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)のレギュラーに抜擢されてから。放送作家の源高志は、その瞬間をよく憶えている。
「プロデューサーが編成会議に『おもしろいヤツを見つけたから』って連れてきて。すかさず『タモリですか?』って聞いて、プロデューサーが『何で知ってるの?』と驚いていた」
源は新宿のバー「ジャックの豆の木」で何度かタモリを見ていた。俗に「密室芸」と呼ばれたタモリのパフォーマンスは、新宿ゴールデン街を中心に、文化人たちのウワサとなっていたのだ。
やがてタモリのレギュラー入りが決まると、源は同じく構成作家の水谷龍二、ディレクターの棚次隆とともに「タモリのなんでも講座」の担当となる。番組のメインは「アコのゴッド姉ちゃん」と題したドタバタコントだったが、シャイな性格のタモリは単独のほうがいいという判断だった。
「マジメだったよね、ネタ作りに参加するタモリは。夜中の何時になろうが、真剣につきあってくれた」
一方で源は、その後、何度も“被害者”となるタモリのいたずら好きを早々に目にする。
「タモリに若いマネジャーがついて、その彼に『下の毛を剃ってこい』と言うんだ。で、剃った毛を1本ずつ封筒に入れ、名刺代わりに『こういう者です』と挨拶しろと。マジメな彼が言われたようにすると、タモリは『誰が受け取るか、そんなもん』って笑っていたから」
まだまだ「ほんの序の口」である──。