お笑い芸人のカテゴリーで括るには、あまりにも異彩を放つ「タモリ」という世界観。それでいながら、日本の茶の間に誰よりも深く、長く、溶け込んでいる。こうした唯一無二の存在感は、国民的な長寿番組を終えて、どこに向かうのだろうか──。
「なんで人の笑いを邪魔しはりまんの?」
ある日、笑福亭鶴瓶はタモリに食ってかかった。長らく「笑っていいとも!」で共演しているが、笑いに対する距離感に疑問を抱いたのである。
これに対してタモリは、平然と言い放つ。
「鶴瓶や明石家さんまは笑いを『取りに行こう』とする。それが当たり前になると、帯の番組はマンネリ化するんだ。だから一番山のところで叩く。そうすると何かを考えるだろ? それがマンネリの解消になるんだよ」
誰もが「瞬発力」を競う生放送において、ただ1人5年後、10年後を見据えている。だから“予定調和”になることを嫌う。
以来、鶴瓶はタモリを「テレビの師匠」と仰ぐようになる。
10月22日、突然に発表された「いいともの歴史に幕」という場にタモリが鶴瓶を呼んだのは、そんな絆があってのことだった。
それにしても番組の32年の歴史で驚かされるのは、タモリの姿勢がまったくブレていないこと。それは75年、30歳の遅咲きで芸能界入りするにあたって立てた「4つの戒律」にも見受けられる。
〈1、誰の弟子にもならない〉
〈2、組織には属さない〉
〈3、頭をなるべく下げずにカネをもうける〉
〈4、色紙にサインをする時は、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない〉
文面だけを見ると「鼻持ちならないヤツ」と映ってしまうが、これが俗っぽさに染まらず、芸能史でも稀有な「タモリというジャンル」を構築させた不変の戒律だったのだ。
そんなタモリの「伝説の第1歩」に立ち会ったのが、サックス奏者の中村誠一である。それは72年、福岡で行われた渡辺貞夫コンサートの夜のこと。
「僕は『山下洋輔トリオ』の一員で参加していて、終わってからホテルの部屋でどんちゃん騒ぎ。そしたらドアが半分だけ開いていたものだから、タモリが目ざとく入ってきたんだよ」
当時のタモリは大分県でボウリング場の支配人。かつては早稲田大学のジャズ研究会に籍を置いており、その時代の仲間が渡辺貞夫のスタッフにいたため、訪ねて行ったのである。
タモリが目にした部屋では、陽気な中村がゴミ箱を頭にかぶって「虚無僧ごっこ」に興じていた。
「そしたらタモリがゴミ箱を鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。僕がとっさにインチキな朝鮮語で『お前は誰だ?』というような聞き方をしたら、彼がもっと流暢な“デタラメ朝鮮語”で返してきたんだよ」
結局、朝が来るまでタモリは、中村や山下洋輔の「あれやって」「これやって」に応じた。さらに翌日の熊本でのコンサートにも“拉致”されることとなり、終われば打ち上げの主役となる。
「東京に出て来たら?」
そんな中村の誘いが実現するまで、3年の時間が必要だった‥‥。
◆アサヒ芸能11/19発売(11/28号)より