ひばりの長男(養子)であり、没後もプロダクションの代表を務める加藤和也は、母の晩年を密な形で過ごしている。そばにいることで知った「美空ひばりという商品」を、こう明かしたことがあった。
「入院して1週間もしたら、長期公演の話が4つくらい舞い込んでくる。病気を治すために入院しているのに、これではおふくろが壊れてしまう。関係者に嫌われたと思いますが、僕が止めないとまずかった‥‥」
ひばり自身が死期を悟りながら、亡くなる3カ月前にはラジオの生放送を引き受け、自宅から中継。これが最後の仕事となったが、ひばりが「ファンに声を聞かせたい」と強く望んだものであったという。
こうしたオファーは死後も続いた。それがレコード大賞初の「故人によるノミネート」になった。ただし、それは決して円満な形とはならなかった‥‥。
「他の歌謡祭は『特別賞』や『功労賞』だった。ところが、レコ大だけは大賞ノミネートにあたる金賞でという話だった」
長らくコロムビアのディレクターとしてひばりを支えた境弘邦が、できれば思い出したくないこととしてつぶやく。そのオファーには、言外に“大賞の約束手形”が含まれていたのだろうか。
レコ大の中継を第1回から担当した砂田実は、この当時はTBSを離れていたが、それでも情報は耳に入ってきていた。
「昭和歌謡の最大の功労者であるひばりに贈るべきだという情緒派と、最も売れたWinkにすべきとのデータ派で意見が対立していったようです」
その前年から審査員に加わった音楽評論家の富澤一誠は、風向きが変わっていくのを肌で感じた。
「新聞各紙の芸能記者や僕ら評論家の票の他に、全国の系列局の票があった。いわゆる『TBSの行政枠』ということになりますが、どうやらここの票が割れたようですね」
マスコミの下馬評では「ひばり有利」だったが、意外な大差でWinkの圧勝。キー局の意向に、地方局が反乱を起こしたとの見方もある。その翌日、筆者はスポーツ紙がWinkの受賞を讃えるのではなく、選考に苦言を呈するいびつな報道を見た。
そしてコロムビアの境は、いわば「はしごを外された」結果を、冷静に分析した。
「最終的にはテレビ局が中継をやっているわけですから、楽曲に対してではなく、アーティストに対しての大賞になってしまう」
つまり、本人不在の大賞は最初からありえなかったのだと‥‥。この年、ひばりには「特別栄誉歌手賞」が贈られ、また後進のために「美空ひばり賞」が創設された。ただし、どれだけ人々の記憶に残っているかは、やはり「レコード大賞」の響きとは別物であろう。
この89年から、NHKの「紅白歌合戦」が開始を7時20分に繰り上げている。両局がリレーで中継していた“蜜月”が終わり、時間帯が重なったレコ大の視聴率は14%と大きく下落。
あるいは、家族そろって楽しまれてきた存在価値に、ピリオドが打たれた瞬間だったかもしれない──。