昨年5月に「ちあきなおみに会いたい。」という文庫を出した直後、筆者は初めて小柳ルミ子に会う機会を得た。その日は「女優」の部分でのインタビューだったが、やはり“後日談”として「世紀の番狂わせ」を聞いておきたい。
その問いに、偽らざる感情があらわになった。
「私は絶対に『瀬戸の花嫁』が大賞だと確信していたんです」
レコ大の会場では、歌い終えた候補者は客席に座ってスタッフと結果を待つ。番組が始まって間もなく、旧知の審査員がこんなことを耳打ちしてきた。
「ルミちゃんは『歌謡大賞』を取ったからいいよね」
にこやかな物言いながら、それは非情の宣告であった。すでに“勲章”を手にしているから、レコード大賞を逃しても大丈夫だろうというニュアンスだ。
「そう聞いた瞬間、私はショックで腰が抜けるかと思いました。だって、これから発表なのに‥‥」
その“暗示”のままに、司会の高橋圭三が読み上げた大賞曲は「喝采」であった。ルミ子は悔しさをこらえ、もうひとつの舞台である「紅白」の会場へ静かに移動する。
そばにいた平尾昌晃は、一瞬は「やられた!」と思ったが、ちあきが歌う「喝采」の素晴らしさも認めていたため、さほど悔しさは感じなかったという。
「後から考えれば、ルミ子はあれで良かったと思う。デビュー曲が大ヒットして、渡辺プロとしても真剣なプロモーションをやる必要がなかった。でも彼女はA型特有の負けず嫌いな性格だから、レコ大を獲れなかったことで会社も含めて初めて危機感を持った。そのことで『星の砂』や『お久しぶりね』といった大ヒット曲をコンスタントに出せたんだと思う」
もう1人の「A型」が、壇上に並んでいた五木ひろしである。こちらも敗れた悔しさを隠さないタイプであり、平尾は翌年、五木に大賞を獲らせるべく書いた「夜空」でみごとに満願を成就する。
歌謡界の黄金期たる70年代の華々しいデッドヒートであるが、中継を担当した砂田実は、どう見つめていたのだろうか──。
「TBSは運営には関わっても、選考には口をはさまない。ただ、個人的には、ちあきの比類なき歌唱力に軍配を上げたかった」
それから約2年後の74年10月22日、砂田は再びちあきと向き合った。中野サンプラザで開かれた初のリサイタルに、演出を依頼されたのである。
砂田は、自分が担当するなら「オリジナルの新しい曲」が欲しいと思った。そして熱海で耳にした娼婦の苦労話を思い出し、その原案をもとに、後輩だった松原史明に詞を書かせた。それがちあきのライブにおける傑作と名高い「ねえあんた」である。
ちあきとともに頂点を争った4人は、今なお歌舞台で歴史を重ねている。ただ1人、あの日に〈喝采〉をつかんだちあきだけが休眠を続けたままだ──。