「たかが歌」‥‥「されど歌」である。かつて、大みそかの茶の間は〈歌謡界の頂点〉に誰が立つのかと固唾を飲んで見守った。それは、1年の間に人々が流した汗や涙を昇華する儀式でもあった──。国民的ヒット曲が不在の今、かつて「日本レコード大賞」に命を削った者たちの“激闘”を、ここに再現してみたい。
「これが日本の音楽業界の現状です」
昨年12月30日のこと。2連覇を果たしたAKB48に対し、制定委員長の服部克久は、肯定とも否定ともつかぬコメントを口にしている。父である作曲家・服部良一が創設に奔走した「日本レコード大賞」は、あるいは迷走してしまったのだろうか‥‥。
授賞式は06年から12月30日に移行しているが、かつては大みそかに生中継していた。番組の立ち上げに関わった元TBSの砂田実は、現行の放映を残念がる。
「放送日がまちまちだった『レコ大』を、大みそかに持っていったのが69年。NHKに何度も交渉に行って、レコ大と紅白歌合戦をつなげる形で“国民的なお祭り”にしたんです」
そもそも第1回のレコ大(59年)は中継もされず、初代の栄誉に輝いた水原弘でさえ「レコード大賞って何だ?」と他人ごとのように洩らしている。
それでも、砂田には“読み”があった。
「第1回の会場に行くと、作曲家協会の偉い人たちが呼び込みをやっていて、それでも客席はガラガラ。ただ、壇上にはスター歌手がずらりと並んでいて、これはいずれ、番組として成立すると思いましたね」
その年は「皇太子ご成婚」でテレビの受信契約が飛躍的に伸び、砂田がにらんだように「レコ大」は人気番組に成長していく。69年(第11回)に大みそかの中継が始まると視聴率は30%台を記録し、そして72年(第14回)は史上2位となる46.5%に達する。
前年より10%以上も上積みしたのは、新人賞(麻丘めぐみ、郷ひろみ、森昌子ら)の混戦もあるが、さらに「奇跡の大逆転」を演じた大賞争いへの関心によるものだ。
候補となったのは沢田研二、小柳ルミ子、和田アキ子、ちあきなおみ、五木ひろしの5名。いずれ劣らぬ売れっ子ばかりだが、ここで本命視されたのが小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」である。
デビュー以来の師である作曲家・平尾昌晃は、4作目の誕生を明かす。
「デビュー曲の『わたしの城下町』はミリオンセラーになったけど、数字も曲のインパクトも少しずつ落ちていった。ここらで本腰を入れて曲を書かなきゃと思ったね」
平尾は少し前に、ルミ子に「いつ、お嫁に行くの?」と聞いたことがある。宝塚音楽学校を首席で卒業したほど歌に賭けていたルミ子は、きっぱりと返す。
「私は行きません。一生、歌手でいたいんです!」
この一言がきっかけで、平尾の心にひとつのアイデアが生まれた。間もなく20歳を迎えるルミ子を、せめて歌の中で「嫁入り」させてやろうと──。作詞家の山上路夫は、その依頼にしかし、頭を抱えてしまう。
「2つ書いたんです。嫁入りを歌った『峠の花嫁』と、瀬戸内をテーマにした『瀬戸の夕焼け』と。ところが、どうもピンと来ないので、ディレクターの塩崎喬さんと2人でソファーに引っくり返ってしまった」
その瞬間だった。それならば2つを合わせて「瀬戸の花嫁」にしてしまおうと。その提案に塩崎も「それだあ!」と声を荒らげ、そこから快進撃が始まった。
◆アサヒ芸能11/26発売(12/5号)より