原節子が世を去ったのは2015年年9月5日。享年95歳。天寿を全うする大往生である。
しかし、原節子は静かに人知れず逝った。女優を引退し、鎌倉に隠遁すること、実に52年。目撃情報、隠れて撮られた写真が公然とニュースになる大女優であった。
代表作は数多いが、やはり、小津安二郎監督作品「東京物語」が白眉である。1953年11月の公開。原節子33歳。匂うように美しい頃であった。
エキゾチックな顔立ちながら、しかし、原節子が演じるのは、日本の若い戦争未亡人である。夫は戦死し、ひとり、孤閨をかこつ身。純日本風な「紀子」の役名は、控えめな立ち居振る舞いにふさわしいが、スッと立つその日本人離れした立ち姿と大輪の美貌を裏切っている。
「東京物語」は、笠智衆と東山千栄子演ずる老夫婦が東京に暮らす子供たちを訪ねる、ただそれだけの話を、丁寧に描いた作品である。尾道から東京に着いた二人を出迎える長男(山村聰)、長女(杉村春子)そして、次男の嫁・紀子(原)である。
“絵に描いたような”との形容があるが、これは、正に、昭和28年の日本のどこにでもあった風景である。1日目、2日目は歓迎をするものの…、いつしか、厄介ものになるであろう年老いた両親。決して、親不孝ではない、むしろ孝行の果てのわずかな行き違い…。ただし、決定的になることは、見事に避けられて、事態は進行していく。しかし、それさえも、どこか懐かしい、「東京のかつての物語」であり、「日本のかつての物語」として、成立している。
今は小康状態が続いているコロナ禍だが、それでも、人との繋がりに飢えた状況が続いている今の時代こそ、鑑賞されるべき作品である。そこには、人と人が持ち得る、最良の気遣いが見て取れる。
さて、原である。所作の凛とした美しさは無論だが、セリフ回しが、かすかに伝法に聞こえるのが好ましい。次男の嫁であるからこその遠慮がちなセリフが多いのだが、例えば、再婚をしてほしいとの姑(東山千栄子)の求めに、「ウフッ」「もう若くありませんわ」と応じる原。
「いいえ、いいんですの」「あたし、歳をとらないことに決めてますから」。柔らかく、しかし、毅然と伝える原節子。
極め付きは、尾道の朝。すでに姑は身罷っている。舅・笠智衆と会話をする場面では、原の口からはこんな言葉が─。
「いいえ、そうなんです」
「わたくし、ずるいんです」
「心の隅で何かを待っているんです」
「ずるいんです」
「いいえ ずるいんです」
繰り返される原の「いいえ」に込められる真情。
モノクロ・スタンダード、ロー・ポジションの画面に切り取られた昭和28年の風景。そこでは、間違いなく「東京」の、「日本」の「物語」が息づいている。
(文中敬称略)