武田信玄の重臣に「不死身の鬼美濃」と恐れられた猛将がいる。天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したが、それまでは40年間、70回以上の戦いで一度も傷を負ったことがないと言われる猛将・馬場美濃守信春だ。
信春は教来石(きょうらいし)遠江守信保の子として、永正11年(1514年)か永正12年(1515年)に誕生したとされている。一族は諏訪との国境に近い教来石を領していたため、教来石姓を名乗っていたが、のちに武田信玄から馬場姓を与えられた。
「武田家4名臣」「武田家四天王」と呼ばれる信春で忘れてはならないのが、永禄11年(1568年)の「今川館の戦い」だ。
勝利した武田信玄は今川氏真の館を焼き討ちにし、館にあった財宝を運び出すように命じた。勝者が敗者の財宝を奪い取るのは当たり前の時代だったが、信春はこれを拒否。
「甲陽軍艦」によると、主君の名誉を考慮し「戦中に財宝を奪うなど、貪欲な武将と後世に笑われる」と、館ごと財宝を焼き払ったという。
この戦後処理を聞いた武田信玄は「確かに理にかなっている」と感服した、と伝わっている。
また、永禄12年(1569年)の「三増峠の戦い」では先鋒として北条軍と戦い、手柄を立てている。
この頃、「飛びの加藤」と呼ばれる忍者・加藤段蔵が上杉氏から武田氏に寝返り、仕えていたが、武田信玄はその優れた忍者技術を警戒。信春はあるじの命を受けて、厠に入っていた段蔵を暗殺したという。
元亀4年(1573年)、武田信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。
長篠の戦いでは山県、内藤晶豊らの重臣と共に味方の不利を説き、「一戦無用」と撤退を進言するも、聞き入れられなかった。
それでも、忠義は尽くした。信春はこの戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼が落ち延びるのを見届けると、わずか100人ほどの兵で、迫る敵から武田本隊を守り、討ち死にした。61歳。戦死の地は出沢(愛知県新城市出沢)とされており、現在は石碑が建っている。
この時の活躍で「信長公記」にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と記されている信春は、まさに戦国時代、最強の武将のひとりと言えるだろう。
(道嶋慶)