戦国時代でも特に有名な合戦が、武田信玄と上杉謙信による「川中島の戦い」だ。これまで、川中島では計5回、信玄と謙信が矛を交えたとされてきたが、戦いは一度きりだったと、大石氏が明かす。
「5回というのは、『甲陽軍艦』などの武田方に残された史料に基づいたもの。上杉の軍略が伝わる、紀州徳川家の史料などでは7回という記述もあるのです。いずれにしても、実際に大きな戦いになったのは、1560年の第4次合戦だけで、そのほかはちょっとした小競り合いや、両軍が対陣してにらみ合っただけのようです」
唯一とはいえこの戦いは、両軍合わせて7000人以上の死者が出た、戦国時代随一の激戦だったという。
また、戦での有名なエピソードに、関ヶ原の戦いにおける「家康の問鉄砲」がある。西軍を裏切る、と約束していたにもかかわらず、戦が始まってもその動きを見せない小早川秀秋に対して、東軍の総大将・徳川家康が小早川軍の陣に向かって鉄砲を撃ち、決断を迫ったというものである。この「問鉄砲」が本当はなかったという説があるのだ。
「関ヶ原に関する一次史料(同時代に記された史料)には『問鉄砲』の記述はありません。『問鉄砲』を命じた家康の判断が勝利をもたらしたとすることで、家康や、その子孫の徳川将軍家の権威を高めようとした江戸時代の作り話の可能性が高いと思います」(安田氏)
同様に徳川の威光を知らしめるために創作されたと言われるのが、石田三成にまつわる話である。
豊臣秀吉の死後、豊臣家内で軍務を担う武断派と、政務担当の文治派が対立。加藤清正、福島正則らの武断派の7人の武将が、文治派のトップである石田三成を襲撃、三成が家康に仲裁を頼んで事なきを得た。この「七将襲撃事件」も実は創作だというのだ。
「三成は敵対する家康の伏見屋敷に逃げ込み難を逃れたとされていますが、実際に逃げ込んだのは自身の屋敷でした。七将は三成を暗殺しようとしたのではなく、家康に訴えて切腹に追い込もうとしていたようです。つまり、家康は両者の仲裁をする立場ではなく、すでに三成を処罰できる豊臣政権のトップだった。それでは宿敵三成を倒して天下を取ったという劇的な物語にならないので、七将をなだめて、三成の命をいったんは救ったという『美談』が作られたのでしょう」(前出・安田氏)
安田氏いわく、家康にはこうしたプロパガンダ的な行動や情報操作が非常に多いのだという。