坂本龍馬の名前を知らない日本人はほとんどいないだろう。薩長同盟の成立に尽力し、明治維新の礎を築いた幕末の志士である(写真は、京急・立会川駅付近にある龍馬像。20歳の時にこの地に住んでいた)。
才谷梅太郎という変名もある坂本家の本家「才谷屋」は、土佐城下屈指の豪商だった。龍馬の家は曽祖父・平八郎直海の時に分家して新規郷士となり、坂本姓を名乗るようになった。
もとは城下には住んでおらず、祖先は長岡郡殖田郷(現在の高知県南国市才谷)の住人だったという。現在もその付近に、祖先である太郎五郎の碑が建っている。
太郎五郎は近江国坂本城の城主だった、明智左馬之介光俊の子供と伝えられている。事実なら、近江から土佐まで落ち延びたことになる。
光春や満春という名でも知られる左馬之介は、本能寺の変で有名な、明智光秀の重臣だ。「明智軍記」などによれば、光秀の叔父・光安の次男とされており、光秀とは血のつながったいとこ同士ということになる。天正6年(1578年)頃には、光秀の娘の再婚相手となったと伝わっている。
光秀は、親戚で、しかも娘婿である左馬之介を誰よりも信頼したのは間違いない。実際、天正10年(1582年)の本能寺の変では、明智軍の先鋒として、京都の本能寺襲撃を命じている。その後、織田信長の居城・安土城の守備も任されている。
その後、光秀が羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れたことを知ると、左馬之介は安土城を出て坂本城に入城した。この際に生まれたのが、琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説だ。
大津で堀秀政の兵に遭遇した左馬之介は名馬にまたがり、雲竜を描いた羽織を着用。鞭を馬にあてて、琵琶湖を渡ったというのだ。
だが、最後は堀秀政に坂本城を包囲され、光秀の妻子を刺し殺して、自分の妻を刺殺。自らも腹を切り、煙硝に火を放って自害した。
その振る舞いは、戦国武将の鏡として称賛されたという。だが、その末裔とされる龍馬が武士の時代、武家社会を終わらせたのだから、皮肉な話である。
(道嶋慶)