息をのむPKが続く中、先攻の広島の4人目は、同点ゴールを挙げた川村拓夢(23)。そのシュートを守護神・河田が止めたことで、在籍20年目の山本に、これを決めれば優勝という大役が回ってきた。
サッカーライターの元川悦子氏が話す。
「地獄から天国とは、まさに彼を象徴する言葉ではないでしょうか。広島にPKを献上した時『もう、このまま辞めようかな‥‥。正直、自分の人生が終わったな』と、絶望感に打ちひしがれるも、大きなミスを2度は犯さなかった。確実に相手GKの動きを見据え、右足を一閃。愛するチームにタイトルをもたらした。彼は『あの時は意外と冷静でした。1回、救ってもらった命だったので、自分の思いどおりのキックをしようと。それがしっかりできました』と、引き寄せた天皇杯タイトルの重みをひしひしと感じていましたね」
サポーターが歓喜するゴール裏には、新たな横断幕が──。そこには「クラブ消滅の危機を乗り越え辿り着いた日本の頂 vfkに関わる全ての人に感謝」と書かれていた。
甲府は99年にJ2に参入するが、00年には経営危機に陥り、一時は4億円もの累積赤字を抱えた。当時を知るクラブ関係者は「まさに暗黒時代」と評すほど。
03年にジェフユナイテッド市原(現千葉)を契約満了となり、セレクションを受けて甲府に渡ってきた山本も、ビッグタイトルを手にしたあとの取材で、当時をこう振り返っている。
「最初『寮はここだ』って言われた場所に行っても、通過してしまったくらい。電気もついていないし『まさかここじゃないよな?』と。大変なところに来たなと思いました」
その“まさかの寮”について、元川氏も懐かしむ。
「当時の海野一幸社長(76)=現最高顧問=が『遠隔地の高校生のための寮が何年も使われていない状態になっている』ことを山梨県の担当者から聞いて、夫人とともに掃除して、手を加えて住める状態にしたものでした」
当然ながら“貧乏クラブ”のもとでは練習環境にしても心もとなく、
「山本は『まず、練習場がなかったので、転々とすることも多かった。練習着の数とかも、ジェフから行った僕からすると少し耐えられなかったし、自分で洗濯したり』と話していた。その状況は06年のJ1初昇格や、12年のJ2初優勝を経ても劇的な改善はなかった。シャワーがない、あってもコインシャワーという練習場を転々としていました。もちろんロッカーもなく、グラウンドの片隅にスポーツバッグやスパイクが置いてあった」(スポーツ紙記者)
一見、華やかに見えるスポーツ界だが、クラブチームによっては、こうした厳しい環境格差があるのも現実なのだ。