江戸時代の創作が、そのまま後世に実像として伝わった最たる例が「忠臣蔵」だろう。浅野と四十七士が“善”で吉良が“悪”という構図は史実とは異なると、大石氏が解説する。
「あれは人形浄瑠璃の創作『仮名手本忠臣蔵』の内容をなぞったもので、実際には吉良は名君だったと言われています」
安田氏も続ける。
「殿中の作法に不慣れな浅野についた指南役が吉良。しかし実際には指南をしなかったために、京都から来た天皇の使者への応対が満足にできず、恥をかかされた浅野が吉良に殿中で切りつけた、という話です。ただ、浅野は同じ役目を18年前に務めたことがあり、不慣れであるはずがなかった。だから、刃傷沙汰の本当の理由はわからない。ただ事象を見れば、殿中で刀を抜いた浅野には、明らかに非があると思います」
とばっちりの吉良としてはたまったものではない。
幕末の偉人・坂本龍馬の功績にも疑問符の付くものが。龍馬が幕府打倒後の新政府のあり方を記したとされる「船中八策」がそれだ。
「実在する『新政府綱領八策』のもととなるのが、船の中で龍馬が書いたと言われる『船中八策』ですが、どうもこれは眉唾だと。明治半ば以降、龍馬を主人公にした新聞小説などがブームになったのですが、その時に作られた話じゃないかと言われています」(前出・安田氏)
龍馬英雄化の背景には、倒幕後の政府の要職を薩摩と長州に奪われた土佐の不満を解消する、という一面もあった。ブームの中核になった、1883年(明治16年)発表の龍馬小説「汗血千里駒」の作者・坂崎紫瀾も土佐藩出身である。
志士と敵対関係にあった新選組といえば、美少年剣士として有名な沖田総司。だが現代的な美形ではなく、美少年として認識されるようになった意外な理由は、74年に草刈正雄(64)が映画「沖田総司」で主演を務めたからである。ちなみに沖田の実像は、
「親族の談話として残っているのは、『平顔で、いつもニコニコ笑っていた』というものだけ。写真の類いはありません」(前出・安田氏)
次から次へと修正される例は数え上げればキリがない。
実は現在、日本史の教科書から、「聖徳太子」という名前が消えている。これは「聖徳太子」という名前が、真田幸村のように死後に付けられた尊称で、生前名乗っていた「厩戸皇子」が正式な表記として記載されているため。ちなみに、現在の教科書では、「仁徳天皇陵」が「大仙古墳」、「踏み絵」は「絵踏み」となっている。
前出・大石氏が歴史の魅力を語る。
「新説が出ることは、これまでの常識を否定されることではなく、新説・新史料を精査・再検証して新たな史実を知るきっかけとなるので、歓迎すべきことなのです」
次なる歴史のギョーテン新説は、いかなるものか。