同じ時代を生きた戦友がまたひとり旅立った。プロ野球歴代3位の567本塁打を放った門田博光が亡くなった。
同学年で、ともに関西のパ・リーグの阪急、南海のチームの顔として長年しのぎを削った。実は1968年のドラフトでは僕が7位で門田が12位。彼は指名拒否して、翌年のドラフト2位で南海に入団した。幻のチームメートやったけど、僕の引退翌年、89年にオリックスでほんまのチームメートになった。南海がダイエーに身売りとなり、門田がトレードでやってくることになったんや。40歳で本塁打と打点王の2冠王に輝いた大打者を手なずける役として、僕に白羽の矢が立った。
僕もほんまはもっと現役を続けたかったのに、上田利治監督の最終戦の挨拶でなかば強引に引退させられた。監督は「去る山田久志、そして残る福本」と言うところを「去る山田、そして福本」と発言。それなら「しゃーない」と引退し、任されたポストが1軍打撃コーチ。ウエさんからは「門田のことを任せた。お前しか言うこと聞かせられん」と言われた。「言い間違いでなく、最初からコレが狙いやったんか」と腹が立ったけど、決まったものは仕方ない。
門田はブルーサンダー打線の一員として、41歳で33本塁打、93打点、打率3割5厘。シーズン終盤にブーマーとのハイタッチで古傷の右肩を脱臼するアクシデントはあったが、文句のつけようのない成績やった。おもり役として、遠征では毎晩、麻雀に付き合った。店員には「このコップ、穴があいているで」と冗談を言いながら、雀荘のビールがなくなるまで飲んだ。もちろん、ビール代は門田持ち。他のメンバーは飲んでも1、2杯やから。麻雀自体も強かった。僕らのルールはオープンリーチなら倍付け。国士無双でもお構いなしにオープンしてツモってしまうのだから、恐ろしい勝負強さやった。
飲む、打つだけでなく、練習の質、量も凄まじかった。ティー打撃では1キロのバットで鉛の入ったボールを打ち返した。若手は「福本さんと同じ練習をしていますよ」と驚いていたが、僕は村田兆治の重たいストレートに押されないため、その練習を取り入れていた。
「やっぱり成績を残すやつは同じことをやるんやな」と実感させられたもんや。門田はマシン打撃でも工夫していた。徐々に投手寄りに近づいて速いストレートに対応。フリー打撃でも一歩前に出たり後ろに下がったりと、いろんなタイミングで打ち込んだ。練習のための練習でなく、常に実戦を意識しての練習やった。
引退してからは大阪の放送局で解説者としてコンビを組んだ。放送席のコーラのカップの中身は実は本物のビール。「飲みすぎやぞ」と叱ったこともあったけど、聞かなかった。結局は不摂生がたたって糖尿病で足の指を切ることになってしまった。近年は人里離れた兵庫の山奥に住み、2日に1回の人工透析に通う日々だったと聞く。
最後に会ったのは、19年6月に東京で行われたアマ指導の資格回復講習やった。昔は毛嫌いしていたノムさんが同席。歩くのを門田が手助けしていたのが印象的やった。もう、あんな豪快な打者は出てこない。知らない人に説明するのは難しいけど、あえて言うなら吉田正尚をパワフルにした感じ。いろんな思い出を振り返ると、寂しくて涙が出てくる。
福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コーチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。