78年12月31日のピンク・レディーは、レコ大の栄誉に輝きながら、続く時間帯の紅白歌合戦は辞退している。それまでの日本の歌謡史ではおよそ前例のないことであり、批判が巻き起こった。
その理由は日本テレビのチャリティ特番に出演するためであったが、結果的に視聴率は惨敗。さらにNHKとも遺恨が生まれ、翌年にはレコードの連続1位記録も途絶えるなど、影響は大きかった。それでも、と貫は当時を回想する。
「コマ劇場からの特番で30曲を歌わせてもらった。今でも紅白より価値のあったことだと思うよ」
ただし、貫自身も「紅白辞退」にかかわらず、ピンクの絶頂期は終わっていたと判断する。
貫が心の底からピークを感じたのは、78年7月23日に開催した後楽園球場でのコンサートだったという。この年の春、ピンクのライバルとされたキャンディーズが同球場で解散コンサートを開いたが、そのことに対してミーとケイの胸中に変化があったのだろうか──、
「いや、正直に言うと“我関せず”だったね。彼女たちは芸能界に対して意欲満々で、『ふつうの女の子に戻りたい』って意識はこれっぽっちもなかった。だったら俺たちも、同じ場所でやってやろうじゃないかって話になったんだよ」
開催が決まると、あっという間にチケットが完売。このままでは暴動が起きると球場側から指摘され、翌24日に追加公演をやらざるを得なくなった。
こうした熱狂は、大みそかを境に一変した。そして79年の夏、規模だけは大きくなった西宮・西武・名古屋の3大球場コンサートを開催したが、動員は芳しくなかった。
そして決定打となったのが、79年秋からのアメリカ進出である。全米デビュー曲の「Kiss In The Dark」はビルボード37位に入るスマッシュヒットとなり、全米3大ネットワークの1つであるNBCで5週間にわたってレギュラーを勝ち取った。
表面上は成功に見えたが、ここからミーとケイの意識の差が明らかになった。
「あれだけのスケジュールで、さらに英語まで勉強しなければならない。そのことにケイがグズグズ言い出したんだね。もう、これ以上やらなくていいんじゃないかと‥‥」
後にケイが著書(「あこがれ」)で述べているが、当時、野口五郎と熱愛中であったこともアメリカ行きをためらわせた大きな理由だ。本格的なエンタテインメントを目指すミーとの確執は明らかなものとなり、またNBCでの番組でも英語のコントを消化しきれないことから不評の嵐となった。
「前の年にミーとケイを連れてラスベガスでアン・マーグレットのショーを見せた時は、2人とも『こういうことをやりたい!』って目を輝かせていたんだよ。ただ、本当に勝負するとなると、ちょっと遅かったかもしれない」
この79年は日本でのセールスも振るわず、事務所の収入は前年から半減となっている。