ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では先発、中継ぎと活躍し、選手たちの精神的支柱ともなって世界一に貢献したダルビッシュ有。
筆者は、縁があって、かつてダルビッシュが活躍していた時代の東北高校で密着取材を許されていた。ガラガラ声で迫力のある若生正廣監督と何回も会っているうちに打ち解けてバカ話を交わすようにもなった。監督とは生徒を育てる苦心などが会話の中心だった。
当時、白河の関を越えてない東北地方に優勝旗を持ってくるのは東北高校しかないと考えていた筆者は、そのドラマを見届けたいと思って東北高校の泉校舎に通うことになった。この時の東北高校は夏の甲子園で決勝まで進んだものの敗退。だが、ダルビッシュはまだ2年生であり、あと1年ある。結果、秋の東北大会を勝ち進み選抜の切符を手に入れた。
若生監督はダルビッシュに対して「何々をやれ」、ということはいっさい言わない。本人のしたいようにさせていた。ダルビッシュの体に成長痛があることも知っていたし、自分でトレーニングメニューを考えるのもそれが彼を伸ばすことになると計算をしていたのだろう。若生監督は他の選手に怒鳴って注意をすることもあったが、ダルビッシュには放任主義で、練習を見ていてチェックするだけだった。外野の芝生で柔軟運動をしているダルビッシュを見ていて、こんな調整で大丈夫なのかな、と思ったこともある。
2年の夏の甲子園が終わってから若生監督はダルビッシュを主将に指名した。責任感を植え付けようと考えたのだろう。
「若生監督に礼」
練習が終わると寮の前に部員が整列してダルビッシュが号令をかける。すると若生が注意事項を話すのが常であった。
「有が(若生監督はいつも有と呼んでいた)ウチに来るとは全く思ってもいなかった。なんでだべなあ~って今でも不思議なんだっちゃ」
若生は仙台弁で笑ったものだ。中学3年の秋にはダルビッシュには20校以上もの高校から勧誘があり、彼自身が上宮太子や広陵や東海大菅生など5校ほどを実際に回ったなかに東北高校もあったという。
「他校は相当アピールしたって聞いているけど、ウチではグランドを見たり、オラがちょっと有と喋ったりしただけだったから、まずウチには来ねえべえなと思っていたら『お願いします』って連絡が来たから、本当に驚いたのさ」(若生監督)
まるで宝くじが当たったような表情を見せたのを今も思い出す。
ダルビッシュは人見知りであり、自分から話しかけるような性格ではなかった。私とも長く話をすることはなかったが、長く取材をしていると彼がこちらにも気を使っていることがわかって来た。これは主将を任されたことが大きいと思う。部員たちをまとめて試合に臨むリーダとして彼らを引っ張っていかなければならなかったのだ。唯我独尊、お山の大将と見られていたのが変化したのは若生監督のお陰であろう。
選抜大会の初戦、対熊本工戦でダルビッシュは大会10年ぶりとなるノーヒットノーランを記録した。その快投を目の当たりにした筆者の頭に優勝がちらついたが、右肩を痛めてしまって準々決勝は登板せず、敗退してしまった。
夏の宮城県大会をぶっちぎりで優勝した東北高校は、今度こそ優勝を目指して甲子園へ乗り込んだ。
初戦の北大津に13─0、続く遊学館に4-0と2戦を連続完封したダルビッシュは絶好調だった。そして3回戦は千葉経大付で1-0とリードしたまま最終回を迎える。これで3試合連続完封かと予感させた。
しかし、甲子園にはやはり魔物が棲んでいた。試合後半から小雨が降っていたが、雨脚が強くなってしまい、泥沼で試合をしている状況になってしまったのだ。そんな状況は両チームに等しいだろうと思われるかもしれないが、そうではなく、東北高校が守りになるとなぜか雨脚が強くなるのである。結局、9回に同点にされてしまい延長10回に3-1で敗れてしまった。
若生監督は翌年、福岡の九国大附の監督に招聘されて東北を去った。そこで春夏4回、甲子園に出場させ、2011年春には準優勝を果たしている。だが、07年に黄色靱帯骨化症という難病を発症し、車椅子を使用することもあった。その後、埼玉栄でも監督をしたが、肝臓がんにより21年7月に70歳の若さで死去している。酒もたばこも嗜まなかった若生の死はダルビッシュもショックを受けたようで、
「ご冥福をお祈りします。今(自分が)あるのも(若生監督が)自由にやらせてくれたから」
と若生の死を悼んでいる。
(深山渓)