2003年の夏の選手権第85回大会は、ある1人の2年生エースに話題が集中した大会となった。“みちのくの雄”東北(宮城)の快腕・ダルビッシュ有(シカゴ・カブス)である。
このダルビッシュを擁し、深紅の大優勝旗の初の“白河の関越え”を狙って甲子園に乗り込んで来たチームは、初戦で筑陽学園(福岡)に11‐6、2回戦の近江(滋賀)に3‐1と勝利し、3回戦に進出。そこで激突したのが、ダルビッシュ同様に2年生エースで勝ち進んできた古豪・平安(現・龍谷大平安=京都)であった。
平安のマウンドを守っていたのは左腕・服部大輔。その力投で、1回戦・2回戦と前々年度、前年度の夏の優勝校である日大三(西東京)を8‐1、明徳義塾(高知)を2‐1と連続撃破していた。そしてこの服部とダルビッシュは中学時代、同じ関西のボーイズリーグでしのぎを削っていた仲だった。さらに前年秋の明治神宮大会では、この両チームが対戦。2‐0でダルビッシュが投げ勝っていた。そんな因縁のある2人が大甲子園であいまみえたのだ。そして、試合は想像を絶する大投手戦が展開されることとなるのである。
立ち上がり、両投手ともピンチを迎える展開に。1回裏、東北は先頭の家長和真が四球で歩くと、盗塁と犠打で1死三塁と先制のチャンス。だが、続く3、4番が服部の前に連続三振に倒れ、無得点。かたや平安も2回表に4番・西野隆雅の左前打から1死二塁とするも、後続がダルビッシュの前に三振、二ゴロに倒れ、こちらも得点ならず。
ここから両投手が壮絶な奪三振ショーを繰り広げていく。5回を終えてダルビッシュは奪三振8、被安打1。対する服部は奪三振11、被安打2。これが両軍スコアボードに0を18個並べた時には、ダルビッシュ14奪三振、被安打2。服部も負けじと16奪三振、被安打5。ダルビッシュは3、4、6回に四死球、7回には左前安打で走者を許し、そのたびに平安ベンチの仕掛けた盗塁で揺さぶられたが、「二塁に行かれても後続を打ち取ればいい」と割り切り、決して本塁を踏ませなかった。対する服部も9回裏に自軍内野陣のエラーで1死二塁と一打サヨナラのピンチを招いたが、このあと左飛、三振で切り抜ける。こうしていつ果てるとも知れぬ奪三振合戦は延長戦へと突入していったのである。ちなみに9回まで両軍合わせて30三振は、当時、実に78年ぶりとなる三振記録であった。
迎えた10回表。ダルビッシュは平安の攻撃を三振、投ゴロ、四球⇒盗塁死で無得点に抑える。対する服部もその裏の東北の攻撃を三振、一ゴロ、二ゴロと三者凡退に。続く11回表。平安の攻撃を中飛、二ゴロ、左飛で終え、ダルビッシュはつけいるスキを与えない。
だが、幕切れは突然訪れた。その裏、東北攻撃陣は先頭の2番・宮田泰成が左前安打で出塁し、犠打で二塁へ。その後、後続が投ゴロから死球でつなぎ、2死ながら一、二塁と一打サヨナラのチャンスをつかんだのだ。打席には6番・加藤政義。その4球目、バットが一閃すると打球は三遊間突破のサヨナラの適時打となって左前へ。両投手合わせて計32奪三振という壮絶な奪三振合戦の幕がここにようやく降りたのである。
実にダルビッシュ15奪三振、そして紙一重の差で敗れた服部はその上を行く17奪三振。もはや意地だった。ダルビッシュは、普段は変化球を決め球に使うことが多かったのだが、この試合は服部の投球に触発されたのか、直球主体に押す力の投球に終始する形となっていた。また、そんなダルビッシュに負けまいと競った服部。この32奪三振は互いがたがいの力を高め合った結果にほかならなかったのである。
この試合で勢いに乗った東北はそのまま勝ち進み、決勝戦へと進出。だが、名将・木内幸男監督擁する常総学院(茨城)の前に2‐4で惜敗し、準優勝止まり。この翌年も春夏と甲子園にやって来たが、優勝にはついに手が届かず。優勝旗の“白河の関越え”の夢は叶わなかったのだ。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=