横恋慕した城主を手ひどく振ったために夫を殺害された上に、一族は皆殺し。自らもミンチのように切り刻まれ、怨霊になった悲劇の美人妻──。それが藤代御前という人物だ。
藤代御前に言い寄ったのは、戦国時代の陸奥国鷹岡(現・青森県弘前市)の大名、津軽為信だった。女好きの為信はある日、鷹岡近くの藤代村の領主の妻で、近郷随一の美女と評判な藤代御前を見初めた。為信は自らの権力を誇示し、夫(本名不詳)に妻を引き渡すよう命じたという。
だが主君の理不尽な命令を、断固拒否。ブチ切れた為信は夫を城に呼び出して謀叛人の罪を着せ、殺害してしまったのである。藤代御前は夫の死を悲しむ暇もなく家督を継承したが、謀叛人の遺族ということで、所領は没収。極貧生活を強いられることになった。
為信はそんな藤代御前をカネと権力で釣ろうとしたが、憎き相手の言葉に首を縦に振るわけがない。一度ならずとも二度までも恥をかかされた為信は、最後には軍勢を引き連れて館を取り囲み、言うことを聞くように最後通告を突きつけたのである。
それでも首を縦には振らず、館に立てこもっての抗戦を決意したが、多勢に無勢だった。たちまちなぶりものにされた妹や家来たちともども、皆殺しにされてしまったのだ。だが、最後の一人となっても戦い抜いた藤代御前の執念に、為信の兵士たちは恐れおののいた。これでもかというほど彼女の遺骸を切り刻み、あっという間にミンチにしてしまったという。本人確認もできないグロテスクな遺骸を見た為信は、岩木川のほとりに埋葬させた。
それから歳月が流れた慶長十二年(1607年)、京都に赴任していた為信の嫡男・津軽平太郎信建が病に倒れ、34歳でその生涯の幕を閉じる。この時、京都まで見舞い訪れた為信の前に、笑い狂う女の亡霊が現れたという。もちろん藤代御前だろう。
ショックを受けた為信は、あとを追うように同年、59歳で死亡。その臨終の際、後継者に指名した三男・平蔵信枚に「亡骸は、岩手川のほとりに埋めてある藤代御前の墓の上に葬れ。私は降魔の鬼となり、(藤代御前)の怨霊を取り押さえる」と遺言したという。信枚は遺言通りに藤代御前の墓に覆いかぶせる形で為信の墓を建立。管理させるために、他所にあった革秀寺を移転させ、今に至っている。
(道嶋慶)