これまで本能寺の変について史実とされていたのは、信長の家臣として仕えていた光秀が、信長を恨むようになり、天下取りの野望を抱き謀反を企てたというものだった。そして、決起直前になって光秀は重臣に打ち明け、「敵は本能寺にあり」と号令を出し、信長討ちを果たした。
一方、上方で遊覧していた家康は、命からがら三河に逃げ帰り(伊賀越え危機)、光秀討伐の軍を起こすも出遅れる。対して、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、毛利家との和睦をまとめ台風の中を驚異の速さで引き返し(中国大返し)、光秀を討ったとされる。
だが、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変当日の行動ひとつとっても不可解な部分が多い。信長が、なぜこれほどまでに油断したのか。また、家康が信長に会うために本能寺に向かっていた理由など、今なお不明な点は多い。
「(本能寺の変の)動機は複合的なものであり、最終的な決断は信長の『唐入り』(=朝鮮侵攻)にあったのではないかと思います。天下統一に向け着々と進んでいたので、すぐにでも止めないと(唐入りまで)一気に行ってしまうだろうと焦っていたと思えます。その点で言えば、光秀の盟友である長宗我部征伐回避を信長に迫り拒絶されたことも、身の危険を感じる大きな契機になったに違いありません」
1575年に土佐を統一した長宗我部元親は信長と同盟を結び、四国統一を狙っていた。ところが、元親と敵対する三好一族の三好康長が信長に服属したことで、同盟関係が崩れ、本能寺の変直前の1582年5月に、四国派兵が始まったのだ。この元親と信長の同盟関係を仲立ちしたのが、他ならぬ光秀だった。
しかし、信長の三男の信孝率いる征伐軍は、本能寺の変で兵士が逃避。その3年後に元親が四国平定を成し遂げた史実を踏まえれば、本能寺の変は、長宗我部元親の滅亡を回避するための蜂起との見方もできる。今年6月には長宗我部元親が光秀の重臣に送った親書が発見され、四国政策の転換も動機づけの要因に加わり、謎解きはますます過熱しそうな勢いだ。
さらには、信長討ちにあたっては、「家康を引き込むことこそ、必須条件だったんです」と、明智氏は力説する。
「畿内の制圧こそ、(大和一派である)細川藤孝や筒井順慶を味方にすれば抑えがつくものの、関東の織田軍の制圧と、厳重な警備下にある安土城の信長と岐阜城の(長男の)信忠討ちを速やかにできなければ、柴田勝家や羽柴秀吉が遠征先から戻って来る。そこに信長との家康討ちの密談が起き、信長と信忠を討てる目算が立った。さらに家康と組めば、東国も抑えられる。やっとここで成功の見通しが立ったわけです」
さまざまな条件が重なり、本能寺の変は、日本の歴史を塗り替えるクーデターとなったのである。