刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ切腹は、海外でも「harakiri」といわれ、日本独自の風習として知られている。その「第1号」は平安時代中期の貴族で、しかも大盗賊だった藤原保輔という人物だ。保輔は日本の主要な氏族の系図をまとめた「尊卑分脈」には、務めた官職の名前を並べた後に「本朝第一の強盗の大元」と記されている。
「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などでは袴垂(はかまだれ)と呼ばれた、希代の大悪党だった。正五位下という官位を持ちながら、非道の限りを尽くしたという。
貴族が集まる宴会で傷害事件を起こしたり、自分の兄・斉光を捕まえた検非違使の源忠良を、弓で射たこともあった。あるいは、他の貴族の屋敷へ強盗に入ったこともある。「宇治拾遺物語」には、自分の屋敷の蔵の床下に穴を掘り、商人を蔵に呼びつけて物を買ったそばからこの穴に突き落として殺した、との説話も掲載されている。
一度は捕まり、牢屋に入れられたが、大赦があって世の中に再び出てくると、殺人を犯して衣服や武具、馬を強奪。仲間を集めて20~30名の強盗団を結成し、都を荒らし回った。
これらの罪状で朝廷から15回も逮捕命令が下り、最後には賞金まで付けられた。それでもなかなか捕まらなかったが、検非違使は父・致忠を人質として連行。監禁し、拷問にかけたという。
これにはさすがの保輔も観念したのか、北花園寺に入り出家。反省の意を示したが、結局は友人・藤原忠延に密告されて、ついに捕らえられてしまう。だが捕まる際に、自死を図ったという。それも自分の腹部を刀で切り、中に手を入れて腸を引きずり出す、という壮絶なものだった。にもかかわらず、すぐには死なず、翌日になって、その傷がもとで獄中死した。
これが記録に残る、日本最古の切腹の事例だ。これ以降、武士の自死の手段として、切腹が用いられるようになっていく。
(道嶋慶)