終戦後、飛躍的な経済成長を遂げる日本。その基盤は戦争の「終わらせ方」にあった。平和な時代に行われるスポーツイベントや、全国民の前には昭和天皇の笑顔があった。
昭和天皇が復興期に果たした役割とは何か──それを考えるうえで、日本人が見落としがちなことがある。“秩序ある終戦”は昭和天皇なくして成立しなかったという現実だ。ポツダム宣言の受諾による終戦を決断し、一挙に国内の意思を統一されたキーパーソンが昭和天皇とも言えるのだ。
当時は鈴木貫太郎内閣総理大臣や阿南惟幾陸軍大臣を含め、政府や軍部は徹底的に戦う機運にあふれていた。立憲君主制では天皇に決定権はない。この「君臨すれども統治せず」という枠組みを破ったのは、二・二六事件と終戦の時の2回であると昭和天皇ご自身も断言している。高森明勅氏が解説する。
「戦後復興の基盤は、戦争の終わらせ方にあります。第一次世界大戦以後、総力戦に敗れた国は、全て君主制が滅びています。みずからの危険を顧みずに天皇ご本人が敗戦を選ぶという決断がなければ、日本も東西ドイツのように分断されていた可能性がある。その状況では、64年の東京オリンピックの大成功もなかったはずです」
東京五輪において日本は、金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個の計29個、世界3位という好成績を残している。昭和39年10月10日の開会式には、昭和天皇の姿があった。前日の台風から一転し、秋晴れの中で、終戦の選択が間違いでなかったことを実感されたに違いない。
また、メキシコ五輪で銅メダルを獲得したサッカー日本代表に、
「よく頑張られましたね」
と声をかけた。相撲をはじめとして昭和天皇はスポーツをこよなく愛していたことがわかる。
天皇の観戦が当時まだマイナーだったプロ野球の地位をメジャースポーツに押し上げた。蜷川正大氏が振り返る。
「昭和34年6月25日、プロ野球初の天覧試合で長嶋茂雄氏がサヨナラホームランを打ちましたが、長嶋氏自身は『生涯の誇りにする』と語っていました」
昭和天皇が復興期に果たした役割として、忘れてはならないのは全国巡幸だ。
昭和天皇のご意思で昭和21年2月19日に始まった全国巡幸は、神奈川県を皮切りに北海道まで3万3000キロ、沖縄を除いて8年半にわたり続いた。巡幸当時、昭和天皇を迎えた人に取材をした高森氏が、当時の国民の気持ちを語る。
「皆さん、『日本は大丈夫だと思った』と異口同音に言います。昭和天皇から直に激励されることで『国民が心を一つにして頑張れば、一流の国を再建できる』というビジョンを見せていただいたのだと思います」
この巡幸は昭和天皇ご自身にとって決して楽なものではなく、苦行を課してまで続けられた。
「巡幸の研究者によれば、泊まるところがなくて小学校の教室の机をどかしてお休みになるようなご不自由に、一度も弱音を吐くことなく続けたそうで、戦争の責任を生涯背負っておられたからでしょう。御文庫という半地下の防空壕に戦時中から入り、昭和36年、60年安保の翌年まで住み続けたことが象徴しています」(高森氏)
その後、吹上御所に移り、住み心地を聞かれた昭和天皇はこう答えている。
〈国民のおかげで住み心地もよく、明るい気持ちのいい家ができたので喜んでいる〉
常に国民に寄り添う昭和天皇のご英断と激励が、今の平和な日本を作ったことは、まごうことなき事実なのである。