大日本帝国憲法時代、タブーとされていた「天皇機関説」。統治権は国家にあるのか、天皇にあるのか──その答えを天皇自身が出していた。
日清戦争の勝利を契機に、日本の軍国主義化が急激に進む1901年に生誕した昭和天皇。日本は04年の日露戦争での勝利、続く10年の日韓併合で世界から「アジアの盟主」と認められる存在になった。
激動の時代に幼少期を過ごし、21年にヨーロッパ各国を外遊。多くの経験が与えた影響を高森明勅氏が解説する。
「今から見ればかなり進歩的です。昭和10年代(35年~)から開戦に至る特殊な時代状況にあって、きわめてクールで理性的で近代的な知性を持っておられた」
28年の「即位の礼」で昭和天皇が読み上げた勅語には、すでに「世界」の平和が盛り込まれている。そんな昭和天皇の思いとは裏腹に、その年6月4日に事件は起きた。
中国に駐留していた関東軍が満州国建国の障害になるとして、張作霖を暗殺した「張作霖爆殺事件」が起こったのだ。
事件後、田中義一首相は昭和天皇に、犯人を軍法会議にかけて厳しく処罰すると語ったが反故にする。昭和天皇は田中に厳しく詰め寄り、辞表提出を求めた。田中の弁明にも〈その必要はなし〉と強固な姿勢を見せ、田中は内閣総辞職を決意する。この時期の天皇の苦悩は次の一文で読み取れよう。
〈御心労のため椅子に凭《もた》れたまま居眠り〉
「昭和天皇独白録」で〈若気の至り〉と述べたこの「田中首相叱責事件」は、軍部の暴走を招く大きなきっかけになったと藤井厳喜氏が語る。
「田中の一件によって、天皇は立憲君主の立場を逸脱したと思うようになります。それ以降、内閣の決定に反対意見を持っていても反対してはいけないという“逆の教訓”が生まれてしまったのです」
重んじたのは「天皇機関説」だ。統治権はあくまで国家にあり、天皇を最高意思決定機関とするものである。天皇自身も、
〈天皇機関説排撃のために自分が動きのとれないものにされることは迷惑である〉(35年3月11日)
〈すなわち機関説であるとのお考えを示される〉(35年3月28日)
と、機関説への賛同の意を表している。
31年9月の満州事変の際には、独断で戦線を拡大していく軍に対して〈事変の拡大はやむを得ないかも知れず〉との姿勢を見せたのだった。
「軍が独断越境して満州へ攻めていきましたが、これは天皇統帥権の干犯〈かんぱん〉ですよ。大元帥であった昭和天皇は、陸軍を叱責し厳罰処分すべきだった」(藤井氏)
陸軍内部でも、政財界・官僚と距離が近い統制派と天皇親政を説く皇道派が内部抗争を繰り広げていた。