32年には、満州国建国に消極的だった犬養毅首相が皇道派の青年将校に暗殺される(五・一五事件)。陸軍にいた実弟・秩父宮までもが、皇道派に思想への傾倒を示し、天皇親政の必要性について「憲法の停止もやむをえない」と発言したことから昭和天皇と激論になったとされている。
それ以降、昭和天皇は政治思想を持つ青年将校への警戒心を募らせていく。
4年後に陸軍の青年将校らが、クーデターを企て、政府の重鎮や軍首脳らを殺傷した二・二六事件が起こる。天皇は発生から3日間で側近を41回も呼び出し〈御自ら暴徒鎮定に当たる御意志〉を示した。その激高ぶりが伝わってくる。
天皇自身が支持した「機関説」を飛び越える高度な政治判断が求められる時代だった。蜷川正大氏はこう語る。
「私は天皇機関説には反対しています。陛下ご自身も、本来は自分がどう扱われたいかを口にすべきではなかったのではないかと思う。しかし、どんな政権においてもご皇室は日本国民の象徴なのです」
また「昭和天皇独白録」には天皇の発言として、次のような言葉がある。
「私は国家を人体に譬〈たと〉え、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代わりに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差し支えないではないか」
帝国憲法第4条に「天皇は国の元首にして統治権を総攬〈そうらん〉し、憲法の条規によってこれを行う」とある。
「近代憲法を採用しているヨーロッパの君主国がどこでも同じように、元首は国家の機関です。戦後の教科書は、『明治憲法は天皇主権説』などとバカなことが書いてあります。主権説を唱えていたのは少数の憲法学者で、多くの憲法学者は機関説を支持していたというのが真実です」(高森氏)
実際、昭和天皇は大元帥という立場ながら軍事にまつわる重要事項を決める御前会議ではひと言も発さなかった。その慣例を破ったのが、危惧していた日米開戦を間近に控えた41年9月6日の御前会議だった。
〈かくては捨て鉢の戦をするにほかならず、誠に危険である〉
突然立ち上がった昭和天皇は明治天皇の和歌「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を読み上げ、「平和愛好の御精神」を訴えた。
その意をくんだ政府首脳が交渉に臨むも、12月1日の御前会議で〈開戦の決定を已むを得ないこと〉として裁可。12月8日の真珠湾攻撃をもって、太平洋戦争が開戦した。その直前、昭和天皇は4歳下の弟・高松宮だけにこう語った。
〈敗戦の恐れありとの認識〉(11月30日)
進歩的な昭和天皇の目には、焦土と化す日本の悲惨な未来が見えていたのかもしれない。