まずは、八重野氏の挙げた4つの伝説について掘り下げてみよう。
まず「天草四郎の秘宝」は、1637年に蜂起した「島原の乱」に由来する。天草四郎が一揆を率いて幕府軍に敗れた後、その残党が金の十字架や金銀の燭台などキリシタンの宝器類を海に沈めたという伝説だ。過去に金塗りの十字架の発見があったほか、その場所を記したとされる秘文書も残されている。
「酒問屋・鹿嶋屋難破船の財宝」は、実際に出た実績があるものだ。05年夏、館山市の塩見海岸で近くに住む老人が偶然に落ちている元文小判を発見。時価30万円のお値打ちものだった。江戸時代に沖で船が沈没したという逸話があるので、積み荷の一部と思われる。となれば難波船から流出したものが大量にあっても不思議はないというわけだ。
「武田信玄の軍用金」は、戦国最強を誇った武田軍の強さはその経済力に裏打ちされていた。その元になったのが、「甲州金」と呼ばれる領内各地で採掘された金だった。その良質な金を、いざという時のために領内の各地にあらかじめ埋蔵して隠していたとされる。明治の終わり、そのうちの一部、金の延べ棒10本ほどを富士山麓で見つけたという目撃者が現れたのだ。しかし、その場所に戻ってみたが肝心の場所がどこだかわからなくなった。そのため今でも富士の樹海に金の延べ棒が眠っているはずだという。
そして「徳川埋蔵金」は1868年に江戸城が無血開城された際、明治新政府軍が攻め入ると、城内の金蔵は空っぽ。あるはずの御用金がすっかりなくなっていたのだ。そこで大政奉還時に勘定奉行で財政責任者だった小栗忠順が、隠棲先の権田村(現高崎市)に持って逃げたのではないかという話が持ち上がった。さらに利根川を遡ってきた船から、積み荷が赤城山中に運び込まれるのを見たという目撃談も現れた。そこから徳川幕府の隠し金が、赤城山麓に眠っているという説が強くなっていく。
「実は、赤城山よりさらに北の片品村付近でも幕府が牛で大量の積み荷を運ぶ姿が目撃されています。何カ所かに分散して埋蔵された可能性があるのです」(八重野氏)
果たして、江戸末期の幕府が360万両もの多額の金をかき集める力を残していたのだろうか‥‥。