土田孫左衛門という名前を聞いたことがあるだろうか。江戸時代の役職に「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)というものがある。朝夕に公務を果たす人、という意味だ。作家の井上ひさしが書いた「おれたちと大砲」という作品にも登場している仕事である。
徳川将軍が上洛、参内、日光東照宮参拝などをする際には近侍として、行列下部の左右にあって警戒する役で、身分は武士ではなく武家奉公人。いわゆる中間だったと伝わっている。
同朋頭支配で定員は1人、高は10人扶持で、米に換算して年50俵。年収にして200万円しかない。ただ、雲の上の存在である将軍に近侍することから帯刀を許され、名字も公式に名乗ることができたという。
古来、高貴な身分の者は衣冠束帯姿である際、衣類の着脱に時間がかかるため、排尿に極めて手間がかかった。そのため、尿瓶にあたる尿筒と呼ばれる銅製の筒を袴の脇から差し込み、排尿中のナニを支える。その役職が公人朝夕人だ。
公人朝夕人は土田家の世襲だ。鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経の頃から時の将軍に仕え、以降、室町幕府の将軍・足利家、織田信長、豊臣秀吉にも仕えていた。
江戸幕府となり、慶長8年(1603年)3月25日、徳川家康が将軍拝賀の礼のため参内した際、それまで尿筒の役・公人朝夕人を家職としていた土田氏の先祖を召し出したことから幕臣となり、その後は土田家が世襲。当主は代々、土田孫左衛門を名乗ることになった。公人朝夕人といえば土田孫左衛門、ということになる。
ただし、公式行事の際の役職であり、毎日のように仕事があるわけではない。ただ、土田家が普段は何をして生活していたのかは、今なお不明のままである。ただ、文字通りのチン商売といえるのは確かだろう。
(道嶋慶)