2018年に始めた全国の競輪場行脚から、足掛け約6年でボートレース、オートレース、地方競馬の公営ギャンブル場を回る旅打ちは、2023年12月16日の津ボート、同17日の常滑ボートで終了となった。
公営ギャンブル場を全部回ることを考えた人はほとんどいないだろうから、何場あるのか考えたことがある人もほとんどいないと思う。
現在、競輪は43場、ボート24場、オート5場、地方競馬15場。競輪の43場は、実は熊本競輪が2016年の地震で施設とバンクが壊れて休止中。2019年に「令和元年 競輪全43場 旅打ちグルメ放浪記」(徳間書店)を出版した時に、競輪の団体がいずれ再開するので、その時に回ることを前提に43場としてほしいということだったので、熊本1場は想定内、43場としている。熊本競輪は2024年に再開することが決まっている。
全国の競輪場行脚を始めたのは、ある人のひと言がきっかけだった。漫画家の横田昌幸さんが1989年に、当時50場あった競輪場を回った「全国50場 競輪巡礼記」(徳間書店)を出版した。それから約30年、再び全国の競輪場を回ってはどうかと言われ、ついその気になってしまった。
そうと決めると、猪年生まれの猪突猛進は、1年をかけて毎週のように全国の競輪場に出かけ、まとめることができた。
途中、競輪の旅打ちをバカげたことだと思ったことがあった。だが、函館競輪に出かけ、函館山に登った時に視界が開けたのだった。函館山には測量家・伊能忠敬の碑が立っている。江戸後期に伊能は17年かけて全国を歩き、測量して「大日本沿岸與地全国」を作成した。
スタートは伊能が55歳の時。ゴールした時は古稀を過ぎていた。還暦手前、交通手段は当時とは比べものにならない現代でやってやれないことはないと、意志を堅くした。それがなければ、続けられていたかわからない。
もっとも、ギャンブル場回りなんて、評価してくれた人は今のところ、ほとんどいない。結果論として旅打ち行脚、言い方を変えて孤独のギャンブルは、現代人に響かないということがなんとなくわかった。
だが2022年春、再び話が持ち込まれる。夕刊紙に競輪場以外のギャンブル場も回ってほしいと言われてその気になり、3月から各地を回ることになった。
ばんえい帯広競馬を皮切りにボート、オートの44場、その合間に競輪18場と、ギャンブルの現代4種競技、62場を回ることができた。残念ながら夕刊紙では途中で終了したが、3コーナーから4コーナーに差しかかっていた時期で、ゴールが視野に入っていた。必ずやり遂げるということで、なんとか全場制覇を初志貫徹することができた。
このギャンブル旅は、これで終了ではない。JRA10場が残っている。それから、すでに廃止になったが、かつて何度も出かけた競輪場が4場ある。2024年内にJRA全場を回って合計101場とする。何の意味もないけど、その全ての原稿を何らかの形で書いたら、前人未到かもしれない。2024年の目標は「全国101ギャンブル場」制覇だ。
さて、ここからは津ボートと常滑ボート。津ボート行きは、歌手・鳥羽一郎さんの歌を聴くのも目的の一つだった。
12月16日は2023年で15回目を迎える冠大会「鳥羽一郎杯争奪戦」初日。鳥羽さんには何度もインタビューをお願いし、2023年夏にボートレースの取材をした時に「鳥羽一郎杯」を知った。初日には現地に赴き、歌謡ショーも行うという。
「『兄弟船』も歌うんですか」と伺ったら「歌うよ」と鳥羽さん。津ボートは伊勢湾に面した海水のボートレース場である。海で聴く名曲「兄弟船」。シビれる! 行くしかない、というわけで、待ってましたの津ボート行きだった。
津ボートには入り口横にツッキードームという、近未来的なデザインの多目的ホールがある(写真)。こういう施設があるのは、全国のボート場では唯一だ。
鳥羽さんは名前の通り、三重県の鳥羽出身。その日は地元のスター見たさに、早い時間からファンが詰めかけた。開演前に挨拶することもできた。歌謡ショーは2ステージ。歌は各ステージ3曲が披露された。「兄弟船」は2回目のラストだった。かつて漁師だった鳥羽さんが海で歌う「兄弟船」を聴く。いつの間にか、涙がこぼれていた…。
(峯田淳/コラムニスト)