元日に起きた能登半島地震。それだけに帰省中の被災者も多数に上った。週刊アサヒ芸能で「座右の銘は不労所得」を連載するライターの和田虫象氏もその1人だ。まさに、九死に一生を得た〝激震の瞬間〟を以下‥‥。
〈ウーウーウー、地震です〉
正直、「またか」と感じた。ここ数年、能登地方では地震が頻発しており、これまでも我が故郷の石川県羽咋市に帰省中、遭遇したことがあった。なかば緊急地震速報の警報音は聞き慣れていた。年に数回、実家に帰るだけの自分がこうなのだから、能登に住む人はなおさらではなかったか。
とはいえ、傍には高齢の母親、小学生になる我が子2人がいた。念のため建物の外へと退避することに。その時、自分たちは母屋隣の倉庫で薪ストーブに使う薪割りの最中だった。母は孫たちの様子を写真に収めようと一緒に倉庫に来ていた。かつて織物工場だった木造2階建で、母屋と共に築年数は自分の年齢をはるかに上回っている。万が一のこともありうると考えての退避だった。
外に出ると揺れがやってきて、やはり大したことはなかった。地震が収まったところで倉庫に戻って薪割りを再開した。すると、また緊急地震速報が鳴り響いたのだ。今度は警報音の直後から揺れ始めた。すぐに収まるだろうと高を括る間もないほど、揺れは激しくなっていく。積み上げた薪は崩れ、立てかけてあった木材が倒れてくる。
経験したことがない激震に「ヤバイ」と思った時には、無意識に子供たちを抱きかかえて腰を落としていた。次の瞬間だった。轟音を響かせて天井が落ちてきたのだ。初めて死を意識したが、近くの作業台に身を隠せたおかげで、落下物の直撃は避けられた。子供たちにもケガはない。母は木材で頭や腰を強打したが、体を動かせるという。
揺れは収まったものの、どうやって脱出すればいいものか。日没前だが押し潰された建物の中には陽の光は入ってこない。暗闇の中で子供たちは怯えており、しきりに「死ぬの?」と聞いてくる。「大丈夫だよ」と励ましたのはいいが、もしかしたら俺の声は上ずっていたかもしれない。スマホのライトを点けると、周囲は落ちてきた梁や柱、ガレキだらけ。そう簡単に出られそうになかった。
しかし、ジッとしているわけにもいかない。高さ数十センチしかない狭い空間を腹ばいになって進み、周囲を探ってはわずかな隙間に体をネジ込み、どうにか隣の狭い空間に移動する。そんなことを繰り返しながら、やっとの思いでガレキの中から這い出したのは午後4時半過ぎのこと。
約20分間の脱出劇、この間には大きな余震もあった。何より崩壊した倉庫を外から見たら、生きているのが奇跡だと感じた。こういう時、人は安堵してヘナヘナと力が抜けるものだと思っていたが、その真逆だった。感動と興奮で、不思議と気分は昂っていた。
現在、俺は東京に帰ってきた。被災地から逃げ出したという気持ちがどこかに残る一方で、断水もガレキもない、いつもの日常に戻れて心から安堵を感じることができた。また来月、片付けを手伝うために実家へ戻る予定だが、それまでにしっかり英気を養いたい。