大化の改新(六四五年)のあと、中央集権的な国家を目指して制定された「大宝律令」(七〇一年)の「律」は現代でいえば刑法にあたる。処刑や拷問についても公式に認めた最も古い法律である。刑罰法の歴史を見てみよう。
以下、河合氏の解説によれば、大宝律令に規定された拷問の方法は、「笞(ち)」と「杖(じょう)」という竹製の棒状のもので叩く刑、この他に懲役刑は最長3年ぐらい、それ以上の罪の場合には「流(る)」と呼ばれる流罪で、流される場所と距離によって種類があった。死刑は、大きく2つに分かれ、絞首刑か首を斬る斬首刑があり、首と身体を切り離す斬首の方が罪が重かったという。
鎌倉時代になると、「御成敗式目」が成立する。貞永元年(一二三二)に鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した武家社会に適用した法律である。人を殺したり傷つけた場合には、死刑か流罪とし財産は没収するなど細かく決められていた。
「例えば主人が殺人などの罪を犯した場合には、主人の罪であってもその妻の財産は没収という連座制の規定もありました。また面白いのは、重大な悪口を言った者は『流罪』。文書偽造などは領地没収、領地がない場合には流罪にするなど、結構厳しい処分が決められていました。強盗や放火も死罪、斬首とされ、人妻との密通、不倫などは領地の半分は没収ですが、身分の低い武士は片方の鬢を剃るという罰。不義密通がすぐに周りにわかってしまう恥ずかしい罰です」
江戸時代。天下泰平の世になると、幕府は諸大名から庶民までを統治すべく、法を整備する。拷問を行って自白させ、武士には切腹を迫ったり、凶悪犯には死罪などの刑罰を与えていく。
「8代将軍徳川吉宗の時に、『公事方御定書』が制定され、その後、『御定書百箇条』という御定書の下巻にあたるものができて、そこには具体的な罪と刑罰が書かれています。有名な刑罰では、盗んだ金額が10両(約70万~80万円)に達したら死刑とか、残虐な刑としては、信長もやったという『鋸挽き』もありましたが、江戸時代にはさすがに鋸を手にする人がいなくなって、役人が軽く罪人の肩を切り、何日かおいて磔にしたようです」
江戸時代の武士には、不始末の責任をとってみずから腹を切る「切腹」という、日本独特の自決法があったが、同時に罪を贖あがなう刑罰としても行われた。「赤穂事件」では、浅野内匠頭は、江戸城で刃傷に及んだことで切腹を命じられ、主君の無念を晴らす仇討ちに成功した後、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士たちも結局は切腹させられる。
上永氏は、江戸時代の切腹にはどこか日本人らしいゆるさを感じると言う。
「泰平の元禄期辺りの切腹は、かなり形式化していて、すぐに首を刎ねる介錯が行われます。斬首は残酷といえば残酷ですが、切腹だけではすぐに死ねませんから、一瞬で絶命して痛みを与えない介錯は、ある意味、優しい処刑法だと言えるかもしれません。大石が切腹した時は、介錯人の腕が悪くて一太刀で首が落とせず2~3回斬ったので、かなり苦しんで死んだそうで、介錯人の子孫の家に遺る刀には当時の刃こぼれがあるそうです。そうなると、逆に拷問ですけど‥‥」
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本三大幕府を解剖する」(朝日新書)。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。
上永 哲矢(うえなが・てつや)歴史writer/紀行作家。神奈川県出身。日本をはじめ中国や台湾などの史跡を取材したルポを中心に手がける。著書「戦国武将を癒やした温泉」(天夢人/山と溪谷社)「三国志 その終わりと始まり」(三栄)など。