江戸時代は、客観的な証拠や証言ではなく、容疑者本人の自白が唯一の証拠だった。罪を認めさせるために厳しい拷問がしばしば行われたと河合氏は言う。
「本人の自白がすべてなので、なんとしても自白させなければなりません。ただ自白させるための拷問を行うには、きちんと老中にお伺いを立てて、その許可をもらう必要があった。しかも拷問していいのは殺人、火付、盗賊など死刑に該当する重罪を犯したことが明白な容疑者に限定されていて、拷問の方法も幕府によって管理され、一定の節度はあったとも言えます。
江戸時代中期以降、公式に認められている拷問は、『笞打ち』『石抱』『海老責』、『釣責』の4種類があり、『笞打ち』で自白しない場合には『石抱』といって、三角に尖った材木5本の上に正座させます。座っただけでも耐えがたい痛みがあるはずで、その膝の上に1枚12貫(45キロ)の重さの石の板を載せていく。5枚くらい石板を載せると人の顎の高さくらいになり、最大10枚まで載せたそうです。それでも自白しない者には、『海老責』です。下着1枚にしてあぐらをかかせ、後手に縛り両足首を結んだ縄を背中から首の前まで絞り上げ、顎と足首が密着する海老のような姿で長時間放置します。その呼び名の由来は一説には血が鬱血して茹でた海老色になるからとも言われ、火付盗賊改方の長官、中山勘解由が天和三年(一六八三)に考案したと言われています。『海老責』でもダメな場合には、最終手段の『釣責』。後ろ手に首や腕を縛り上げ、天井の梁に架けた太縄に吊り、しばらくすると縄が身体に食い込んで手足に血行障害が起こり、鞭や棒で腿や腕などを打ちつけたといいます」
日本の歴史の中でも、最も悲惨な拷問が大規模になされたのは、キリシタンに対しての拷問だと、河合氏は続ける。
「キリスト教を棄教することを『転ぶ』と言っていましたが、転ばせるために過酷な拷問を信者にしていました。具体的には、指を一本ずつ切り落としていったり、ノコギリで切ったり、鼻を削いだり、全裸にして寒いところに放置したり、逆さ磔にしたり、足の筋を切って歩けなくしたり、焼き印を押したり、果ては雲仙普賢岳の高温の熱湯に投げ込んだり、とにかくヒドイものでした。そうした拷問・弾圧を徳川家康がキリスト教を禁じる禁教令を出して以降、幕末まで続けていた。外国人とつながって叛乱を起こすのではないかという恐怖です。いかにキリシタンを恐れていたのかがわかります」
拷問は、犯罪者に自白を迫るだけでなく、敵対する勢力の秘密を聞き出すにも有効だった。中でも、幕末の新選組による古高俊太郎への拷問は同時代に類を見ないほど苛烈で、大活劇で有名な池田屋事件につながった。上永氏は語る。
「古高俊太郎は、武具屋を営みながら町人に身をやつした討幕派の長州人たちの元締めとして情報収集などをしていましたが、長州人たちが集まっているという情報を得た新選組二番隊組長の永倉新八らに自宅に踏み込まれ逮捕されました。壬生の屯所に連行され、近藤勇が尋問しますが、すでに死を覚悟していた古高は棒で叩いて背中の皮がやぶれて失神しても口を割らないので、鬼の副長の異名をとる土方歳三が拷問することになります。
『両手をうしろへまわしてしばり梁へさかさにつるしあげ、足の裏へ五寸釘をプツリととおし(貫通した足の裏の釘に)百目ろうそくを立てて火をともした。みるみるろうが流れて熱鉛のように古高の足の裏からタラタラとはっていく。』と、その拷問の様子は、永倉新八が口述した『新撰組顚末記』に生々しく記されています。古高はこの拷問に耐えかねて、“御所に火をつけて京都守護職の松平容保らを殺害して天皇を長州へ連れ去る”というクーデター計画を自白しますが、その計画を阻止するために新選組が池田屋に出動したと永倉は証言しています」
日本史が経験した拷問や虐殺の歴史を辿ると、やはりその残虐性は、戦国時代や幕末など動乱期に際立っているようだ。世界には、大きな時代の変化の波が押し寄せ動乱の予感さえあるが、虐殺が、拷問が、日常となる世界を現出させてはならない。否定すべき負の記憶こそがそのブレーキたり得ることを肝に銘じたい。
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本三大幕府を解剖する」(朝日新書)。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。
上永 哲矢(うえなが・てつや)歴史writer/紀行作家。神奈川県出身。日本をはじめ中国や台湾などの史跡を取材したルポを中心に手がける。著書「戦国武将を癒やした温泉」(天夢人/山と溪谷社)「三国志 その終わりと始まり」(三栄)など。