先頃、お笑い芸人のホーキング青山(享年50)が昨年12月12日に亡くなっていたことが公表された。マシンガンのようにしゃべりまくる「障碍者芸人」の人生は、その多くがビートたけし(77)への憧れにあふれ、寵愛を受ける関係性とともに歩んだ生涯だった。
青山は先天性多発性関節拘縮症により、生まれつき両手足が使えなかった。
幼少時より何となくバラエティー番組を見てはいたが、小学校高学年頃になると、中でもたけしだけは「何か変だな」と思い始めた。そして、「ビートたけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)を聴きだして確信したのだ。生前の青山がアサ芸にこう語っている。
「ありえないくらいの悪口が気持ちよかった。障碍者って世間的に差別される反面、真綿に針を包むというか腫れ物扱いで、本音で話せる場所がなくて。あの人の毒って、それを全部打ち破る。そのエッセンスがあれば、自分も生きやすくなる。タチの悪い子とは思われても、足りない子とは思われたくなかった。だったら、そっちの方がいいなって‥‥」(以下、「 」内は青山の発言)
とはいえ、芸人になる気はなかったが、徐々に放送コードのないネタが飛び交うお笑いライブに足を運ぶようになった。
「いろんな所に顔を出してたら、目立つから、みんながネタにするわけですよ。談志師匠なんて『あの青山ってヤツは、立見席で座って観てんだ』って」
青山をいじることが解禁された。すると高田文夫が仕切る「関東高田組」の芸人を中心に、メディアで青山の名前が出されるようになる。さらには本人が「週刊SPA!」でインタビューを受けるまでに至ったのだが、その記事に〈彼はお笑い芸人を志している〉と書かれてしまったのだ。
「一言も言ってないのに。そしたら(大川興業の)大川総裁が『うちでやるか?』って。なりゆきで舞台に上がったんだけど、登場しても拍手がなくて地獄だった。笑っていいんだよって伝えるために『見世物小屋にようこそ』って言ったらウケちゃったの」
デビューは94年6月だった。青山は「憧れのたけしさんに会える可能性も増えた」と周囲に吹聴した。
「その途端、2カ月後に(たけしの)バイク事故ですよ」
たけしとの対面が実現したのはようやく01年、「ここがヘンだよ日本人」(TBS系)で障碍者を取り上げる放送回の収録だった。当時は「乙武洋匡の悪口を言える男」としても認知されるようになっていた頃だ。
「オンエア見たらひどかった。みんな正面向いてんのに、僕だけたけしさん見たくて横向いてんの」
それでも、また収録に呼んでもらえた。そこで「何かしゃべれ」と言われ─。
「浅草の駅は階段ばっかりだから、介護で駅員さんが担いでくれる。でも踊り場で駅員さんが止まってゼイゼイ。『私、心臓悪いんです』って。そしたら殿が『お前、全部ネタだろ』と笑い、気づいたら30分くらい僕との掛け合いに。最後には『お前、そんなことばっかり言ってると、俺ん家呼んじゃうから覚悟しろ』ってよくわからないこと言って」
実際、プライベートでも親交を持つようになり、「俺はとにかくお前のそのしゃべりが好きだ」と評された。
「たけしさんが好きで、それマネしただけなのに」
青山は12年から落語にも進出したが、これもたけしの進言がきっかけだった。
「『障碍者が障碍者の(ことを話す)番組に出るのは当たり前なんだから。それ以外の話できるようになって初めて一人前だぜ』と言われてからです。グレート義太夫さんと『二人会』を始めたら、その初回に飛び入り出演もしてくれた。客席50〜60人の会場で、予告なしのたけしさん登場です」
ちなみに、たけしは青山に「古今テー志んショー者」の高座名を授け、改名の必要性に迫られると「古開院亭大麻(こかいんていたいま)」と名付けている。
青山は、亡くなる直前に公開された北野映画「首」(23年、東宝・KADOKAWA)にも重要な役どころで出演した。最期までたけしとともにあった芸人人生であった。合掌。