革ジャンにサングラス、デーモン閣下作曲のテーマ曲に乗って入場するや、トップロープを飛び越えてリングイン。タンクトップを引き裂き、対戦相手のバンバン・ビガロを指さして挑発する。
1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会で、新人としては異例のド派手パフォーマンスでデビューを飾ったのが、元横綱・双羽黒の北尾光司だった。
北尾は1986年に第60代横綱に昇進。しかし、翌1987年12月に親方とのトラブルから立浪部屋を飛び出して廃業。その後、新日本プロレスのリングに上がった。
だが、早くも現場監督の長州力に民族差別的な暴言を吐き、半年足らずで契約解除が言い渡される。
捨てる神あれば拾う神あり。その後、同じ大相撲出身の天龍源一郎に手を差し伸べられた北尾は1990年11月、SWSに入団する。翌1991年、ジョン・テンタとの2連戦で勃発したのが、プロレス史に残る前代未聞の衝撃事件だったのである。
北尾とカナダ出身のテンタは、1963年生まれの同い年だ。テンタは1985年に佐渡ヶ嶽部屋に入門後、琴天山の四股名で3場所連続優勝。1986年7月場所では幕下43枚目まで昇進するも、なんと場所前に恋人の通訳女性と失踪し、廃業することに。1986年6月に全日本プロレス入りした。
そういう意味ではこの2人、境遇は似ていなくもないのだが、相撲での実績はテンタ=幕下、北尾=横綱、と雲泥の差。ただ、プロレス界でのテンタは、ハルク・ホーガンとの抗争で人気を得る、いわばWWEのトップヒールとして活躍中だった。
そんな中で始まった1991年3月30日の第1戦は、テンタがアースクエイクドロップでピンフォール勝ち。しかし、4月1日に行われた神戸での再戦では、序盤から北尾がテンタの技を受けようとせず、ノド輪や危険なヒザ関節への蹴りを連発する。さらに指を2本立てるサミングポーズで威嚇し、本部席の机をリングに投げるなど、場外でやりたい放題。最後はレフェリーに暴行を加えて反則負けになったのだが、そこでリングから降りた北尾がマイクを手に取り叫んだのが、禁句中の禁句である、こんな言葉だった。
「八百長野郎! この野郎! 八百長ばっかりやりやがって。八百長!」
むろん観客、関係者が騒然となったことは言うまでもないが、北尾の暴走は止まらない。なんと控室でも当時SWSの現場を仕切っていたメガネスーパー社長夫人に「うるせえ、ババア!」と暴言を浴びせ、椅子を投げつけた、との報道もあった。
北尾がブチ切れたのは「ザ・グレート・カブキのマッチメークが気に入らなかったから」とも「周囲の選手たちが『横綱がなんで幕下に負けるんだ!』と焚きつけたから」とも伝えられる。
この騒動がもとで、北尾はSWSをクビに。2人が鬼籍に入っている今となっては真相は不明だが、テンタはかつて、インタビューでこう語っている。
「アメリカに帰ったら、相撲のグランドチャンピオンを返り討ちにしたって話になっていて。それで他のレスラーから一目置かれるようになったんだよ」
くしくも北尾の暴言がプロレスラーとしての「テンタ最強伝説」を世界に広めることになったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。取材分野は芸能、事件、皇室、医療、スポーツ等、多岐にわたる。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。